【書評】吉原直樹・今野裕昭・松本行真 編『海外日本人社会とメディア・ネットワーク——バリ日本人社会を事例として』

海外【書評】吉原直樹・今野裕昭・松本行真 編『海外日本人社会とメディア・ネットワーク——バリ日本人社会を事例として』

社会学評論 Vol.68, No.1/2017 p.161より

本書を一読しながら評者の脳裏で通奏低音のように響き続けていたのは、「人類は境界を知らない境界的存在だ」という『橋と扉』(Simmel 1909 = 1999 : 100)の終わりに示されたジンメルの一節であった。およそ1世紀を経た今、ヒトの移動は地球規模でますます越境化し他方向化し複層化し、それとともにジンメルが示した境界をめぐる人間の本源的両義性・複雑性は歴史上かつてないほど深まっている。それゆえに、21世紀の今ほど、ヒトの移動の実態が捉えにくくなっている時代はない。現代人にとってフットワーク軽く国境を越えて移動・移住することは20世紀よりはるかに容易になっている。地球規模のメディア・ネットワークもめまぐるしく拡大している。だがそれと同時に、近年のヨーロッパにおける難民パニックやイギリスのEUからの離脱、アメリカ大統領選挙における移民の争点化に見て取れるように、「選べない移動」を余儀なくされた移民や難民をめぐって、「逃走の権利」の承認と否認が社会の分断と政治的な対立の深刻な火種となっていることもまぎれもない事実である。本書は、グローバル化の進展とともにますます複雑化する今日のこのようなヒトの移動の実態にバリの日本人社会の事例研究を通してアプローチした労作であり、時宜を得た貴重な成果として高く評価できる。事例研究の極意は「真実は細部に宿る」にあると評者は考えているが、本書の真骨頂は、まさに今日のグローバルなヒトの移動の複雑な実相に日本人の移動の細部に目を凝らしながら切り込んだところにあると思われる。そこからは、グローバルな移動にも通底する日本人の移動・移住の両義性・複雑性が大きく3つの論点として浮かび上がってくる。

1つは、国策移民、企業移民からライフスタイル移民へ、すなわち個人の意思で「選べない移動」から「選べる移動」への変容の課程で、移動・移住のあり方がますます多様化・流動化している現状の中に日本社会内部の格差や分断に由来する複雑な陰影が読み取られている。ライフスタイル移民がみな自己決定に基づいて「選べる移動」を実践しているというほど真実は単純ではない。1990年代にその嚆矢となったのは主に日本の男性社会に見切りをつけた女性たちであったこと、今世紀に入ってからは退職者ビザを取得してバリに移住しながらも貧困化しつつある高齢者や福島から避難を余儀なくされバリに移住した家族のように、「選べない移動」(日本で安心して老後を送れない、福島に住めない)が根底にあっての「選べる移動」でしかないケースも少なくないこと、しかもそのようなケースでは、日本に「帰る自由」も奪われがちになっていることを示唆する中で、現代の日本人もまた難民化・棄民化と無縁ではないことが浮き彫りにされている。

2つ目に、そのような移動・移住がアイデンティティの複層化につながっていることが、バリに移住した日本人の世代的変遷を通して明らかにされている。1970年代に移住したパイオニアである第1世代も国際結婚などで1990年代に移住したライフスタイル移民の嚆矢たる第2世代も、バリやインドネシアに対する同化・定住志向が強かった。しかし、21世紀に入ってから移住した第3世代には同化・定住志向が希薄で(たまたまバリに居るだけ、バリでなくてもよい)、結婚しても日本国籍を維持する人々が増えていることが大きな変化の流れとして示されている。

3つ目に、そのような世代間のアイデンティティの複層化が、バリ日本人社会のコミュニティの変質をもたらしていることが、メディア・ネットワークの変容課程を通して浮き彫りにされている。そしてそこから、「『閉じる』コミュニティへの同化ではなく、ローカルな社会への『開かれた』関与をメルクマールとするような、脱ナショナリティ志向の日本人社会」の部分的出現が示唆されている(202頁)

長年の多岐にわたる共同研究の成果として本書が示した以上3つの論点は、おそらく、現代社会の移動・移民・移住の中にナショナリティに閉じない外に開かれたエスニック・コミュニティの兆しが顕われ始めているという予見に収斂していると受けとめることができよう。だが、それは決して予定調和的に「グローバルな市民社会」に直結するような動向ではなく、ナショナリティの内側の格差や不平等を反映したナショナリティからの「逃走」という負の要素をも含み込んだ両義的な動向であることも本書は的確に見据えている。そこに、バリの日本人社会という事例の個別性を越えた現代のモビリティに対する普遍的な問題提起を読み取ることができるであろう。

編者自ら「掲げたテーマのごく一部にしか分け入っていない」と言う通り(ⅲ頁)、本書のテーマ設定は多岐にわたり、理論的にも実証的にも粗削りな印象は拭い難い。とはいえ、日本人の移動研究から「移民の社会学」の新たな展開に向けて一歩踏み出した功績は多とすべきであろう。

[文献]
Simmel, G., 1909, Brücke und Tür.(= 1999, 北川東子編訳・鈴木直訳『ジンメル・コレクション』

池田寛二(法政大学社会学部教授)

海外日本人社会とメディア・ネットワーク

【東信堂 本体価格4,600円】

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