【書評】山本吉宣著『「帝国」の国際政治学 冷戦後の国際システムとアメリカ』

毎日新聞2007年1月21日朝刊より

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こんな学術的な大著が新聞書評で取り上げられることはまれであろう。私自身としては時として研究所を扱うが、その多くは歴史研究である。学術書として書かれたものであっても、その文明史的意味を鬼る内容であれば、新聞書評にふさわしいと思う。

本書は国際政治学の研究書である。専門外の者にはとっつきにくい本となっても不思議ではない。が、書く人次第ではそうならない。本書にあっては、論の向こうに実相が透けて見える。国際政治と外交政策をめぐる米国の旺盛な議論が、きわめて明快にこなされ紹介される。難しい理屈としてではなく、ある時代状況の中で存在理由のある主張として示される。それを重ねる中で、論の論でなく、米国の政治外交をめぐる認識の歴史が、そして外国政策史そのものが浮かび上がる。そういう作品である。現代の国際政治という文明を描き上げた研究所として、ここに取り上げる次第である。

本書のキーワードを二つ挙げるとすれば、「アメリカ」と「帝国」である。去る二十世紀は「アメリカの世紀」であるといわれた。けれども「アメリカ帝国主義」という名は、イデオロギー的避難の世界は別として、一般用語として用いられることは余りなかった。それが新世紀を迎えて、この二つのキーワードが結びつこうとしている。どういうことか。

「帝国」といった言葉を使って議論をする場合、どう定義するかが肝要である。本書は、ある国が他国に支配を及ぼすに際し、外交政策への影響に留まる場合を「覇権」と呼び、外交と内政双方を統御する場合を「帝国」と使い分ける。アメリカは多くの国々の対外政策に圧倒的な影響力を及ぼしているので疑いもなく覇権国である。しかし内政まで支配するのは常ではないので帝国かどうか議論は分かれる。

古典的な帝国は、他国の主権を奪って、併合し、あるいは植民地化するものである。このような制度化された帝国は第一次大戦以降、終焉に向かった。けれども強制もしくは合意によって、他国の外交・内政を支配する試みは終わらない。このような支配を、本書は「インフォ―マルな帝国」と呼び、米国がそれをいかに踏み込んだかを豊かに検証する。

十九世紀末の米西戦争によるフィリピン領有は、その是非をめぐり米国内に「帝国主義論争」を伴ったが、第二次世界大戦までの米国は、カリブ海域以外に派遣を振うことはなかった。一九三九年の米陸軍は一八・五万人であり、巨大な経済力を対外支配に転化する国内インフラは乏しかった。

対戦がアメリカを決定的に変えた。戦後世界にあって米国は圧倒的な経済力をもとに、自由貿易体制を築き世界に拡げた。さらに冷戦期は競合する二つの帝国システムの対峙となったが、米国は反共同盟網をめぐらせて、世界中に軍事基地網を形成した。米国がインフォーマルな帝国システムを築き運営するための上部構造として、本書はこの基地網を重視する。

ベトナム戦争の敗北で傷ついた米国は、ニクソン、キッシンジャーの下で、帝国から勢力均衡と多極化を図る普通の大国へ回帰したかに見えた。しかし七〇年代に他方の帝国・ソ連が経済停滞の中で対外過剰介入に走ったことから、内外に困難を深め、ついに九一年の崩壊に至る。冷戦終結後の世界について米国の単極から多極化まで様々な見方が存在した。事実は、九〇年台の米国は新たな情報産業を展開して長期の成長を続けて経済力で圧倒的立場を築いた。さらにユーゴ爆撃などを通じて、自らの無比の軍事力を確認するに至る。ライバルなき世界大国の立場を得たのである。

ここで本書が重視するもう一つの要素「ネオコン」が米国の対外政策に深く刻印を残すことになる。ネオコンの歴史は長く苦しいものであったが、冷戦終結後の九〇年代に新たな息吹をもって浮上した。世界の民主化を対外政策の目標とし、そのため軍事力の行使をも辞さない。米国単独でも、先制的にも力を行使しうるとし、善悪二元論に立ち、道徳的明確さと強い政治的意思を鼓舞するネオコンである。ブッシュ政権は九・一一テロの衝撃の中で、それまで下支え的役割に留まっていたネオコンの観念と政策を受けいれ、イラク戦争に突き進むに至った。

その結果の不首尾によって、今やネオコンの退潮は明瞭であるが、米国の培った帝国システムはどう変容するのであろうか。伝統的な国際政治に立つ中国やインドによる挑戦、より普遍的な国際システムやグローバル社会などとの重層的併存の中で、いくつかの可能性を本書は示している。二十一世紀の世界秩序と世界文明の行方を、現在の国際システムの構造的分析から考えさせる力作である。

「帝国」の国際政治学

【東信堂 本体価格4,700円】

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