【書評】関礼子著『被災と避難の社会学』

週刊読書人 2018年6月1日号より

「制度の時間」と「生活の時間」のずれに注目

生活者たちの肉声に光を当てる

9784798914527

多災害国の日本では、誰もが被災者になりうる。それにも拘わらず、彼らを取り巻く社会システムはなぜ不十分なままなのか。本書はこの問題意識に基づいて、「制度の時間」と「生活の時間」のずれに注目する。行政が描き出す「復興」のストーリーがどのように現実から乖離していくのか、その必然性と人為性の両面を、生活者としての被災者の視点から問い直していくのである。社会学ならでは雄地道な調査に基づく成果だと言える。

本書によれば、東京オリンピックを「復興」の終着点に据えた政策が、東日本大震災の被災地に様々な理不尽をもたらしてきた。復興事業の要として整備されたインフラの維持管理費用は、将来的に被災3県の財政に重くのしかかり、かえって自立の妨げになる可能性があるという(1章)。また、府k素島原発事故の責任を棚上げしたまま「日本再生」を演出しようとする政府の方針は、非災害の被災者であるはずの原発避難者に対して、有形無形の圧力を与えずにはおかない。原発避難者の中には、公的支援や賠償の打ち切りによって生活困難者に転落していく当事者も少なくないが(母子避難者はその典型)彼女たちは、制度的に生活保護や母子手当を受け取ることもできず、社会的に「自己責任」のレッテルを貼られたまま孤立に追い込まれているのである(4章、6章)。

そもそも高濃度汚染地の当事者たちは、生命、健康、人格、財産、社会関係資本において算出不能なレベルの被害を蒙ってきた。ところがこの国の法制度には、そのような被害を「賠償金」問題へと矮小化する仕組み史家存在しないというのが現状である(7章)。例えば、政府の初期対応のまずさやリスクアドヴァイザーたちの無責任な「安心」宣言によって桁違いの被爆を強いられた飯館村の住民は、現在、ADR(原子力損害賠償紛争解決)に活路を見出そうとしているが、その制度野下で示される和解案が、全人格的な攻撃を受けた当事者の訴えを真に反映したものになるかは、予断を許さない状況だ(5章)。

もちろん、本書は単なる行政批判をする書物ではない。事実、東日本大震災が露呈させたのは、もともとこの国の社会構造に内在していた矛盾や裂け目の数々だったのだから。この意味で、日本における被災後の集団移転事業の歴史と現在を追及した2つの論考は注目に値する(2章、3章)。これらの論考によれば、東日本大震災は、人口減少と高齢化によって縮小化する日本の地域社会の諸問題を炙り出し、経済成長主義の幻想を宿した社会設計や防災事業の在り方に根底から疑問を突き付けた。例えば、震災後に始まった石巻での防災集団移転事業は当事者の合意形成に付きまとう様々な困難を浮き彫りに史、「行政の責任」として一括するには余りに複雑な過程をたどってきたという。どちらも地味な論考ではあるが、大規模複合災害としての東日本大震災に宿る、一筋縄ではいかない性質を描き出す力作である。

「制度の時間」は常に既に、当事者たちの「生活の時間」と乖離する側面を孕んでいる。そして災害や戦争は、この酷薄な現実を極大の形で剥き出しにしてしまう (原理的側面)。一方、行政がこの乖離に開き直る時、積極的に被災者を切り捨てる方向へと舵を切っていくのだろう(人為的側面)。原発避難者たちを兵糧攻めにする「復興」政策の本質は、この後者にあるのだと私は受け止めた。本書は徹底して被災者の生活の側に立つことで、災害時の原理的側面と人為的側面を同時に浮かびあがらせている。論考ごとに力点の差異はあるが、そのことはむしろ、東日本大震災に対する複眼的視線の必要性を認識させてくれる。本書の中で々光が当てられる生活者たちの肉声は、本質的には理不尽であるほかない制度の「合理性」の上に安住する私たち自身への問いかけでもあるだろう。その問いかけを一冊にまとめた関礼子の編集術に敬意を表したい。

(宇都宮大学准教授・フランス文学・思想 田口卓臣 評)

被災と避難の社会学

【東信堂 本体価格2,300円】

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