【書評】舘昭著『東京帝国大学の真実ー日本近代大学形成の検証と洞察』

tokyotei-E日本科学史学会編集(2016)『科学史研究』 55巻 No. 278, 2016年7月号より

日本の高等教育史・大学論の専門家である著者の、1975年から1983年に至るまでの論文を集めた書籍である。雑誌で読むほかなかった、日本の大学史研究が活発になっていった時期の諸論攷が、1冊にまとめられて読めるようになったことの意義は大きい。

全体は13章から成り、第1章から第8章は、明治維新直後から第一次大戦後までの東京大学‐帝国大学‐東京帝国大学とその周辺に関わる課題を、特徴的な機関・人物・改革案などに焦点を当てて論じている。続く第9章は大学学年暦の変遷、第10章は企業と大学の関わり、第11章は高等技術教育政策というように、個別の事項の展開を期間を長くとって追っており、第12・13章はそれぞれヨーロッパと日本における近代大学形成の過程を通史的に描いている。以下各章の紹介を若干の批評とともに記す。

第1章は、文部省設立以前に行政機関と学校の機能を併せ持つ存在として1869年に設けられた「大学(校)」について、主として『公文録』中の文書に拠りながら、関連の昌平・開成学校の来歴から説き起こし、内部の構造や機能を分析した論文である。文部省以前に設けられた大学(校)が行政機関の側面も持っていたことは、現在では広く知られていると思われるが、この章のもととなった1979年の論文が、その事実を最初に指摘したのであった。

第2章は、工部大学校を取り上げ、ダイヤーの設立構想、学校と実地での教育を併せて課した「サンドイッチ」型の教育組織、各学科の成果、東京大学理学部の工学系諸科との比較などについて論じている。これも工部大学校について教育内容にまでわたって特異性を取り上げて評価したごく初期の研究成果である。著者は、工部大学校が東京大学工芸学部に吸収されるかたちで終焉を迎え、高等教育段階での工学研究教育機関が帝国大学工科大学に一本化されたこと、またそこでは実地教育を重視する態度が失われたことを否定的に捉え、これを行った森有礼についても「賞賛のみすることはできない」と論ずる。これに対して評者は、西洋と異なり普通教育の総合大学に博士の学位を授けうる機関として工科大学が設けられたことにより、日本における工学の専門としての地位は他国に先んじて高いものになったと考えている。

第3章は、帝国大学令制定当時(1886年)には、すでにそれに先立つ時期における高等教育機関として運営の蓄積をもっていた帝国大学と、これに制度としての枠組みを与えようとした帝国大学令の間にあった矛盾を、学科編成・管理機構などの不整合に即して指摘する。続く第4章では、前章で指摘された帝国大学令の欠陥を生んだ人物と目される森有礼が取り上げられ、啓蒙性をもって賞賛される森が、実際には大学が国家目的に沿った存在となることを要望しており、特に、自治を認めたとされる演説が、帝国大学令の定める管理機構が機能せず、やむなく分科大学教授会を追認せざるを得ない旨を伝えるに過ぎない内容であった可能性を指摘している。

森が晩年に国家主義の側に向かったことは評者も認める。ただし、森の思想は若年の折から晩年に至るまで短期間ごとに大きな幅で触れ続けており、没する数年前の極端な国家主義の要因については、兵役などをめぐって顕になったように、西洋諸国の学生に比べて、高等教育機関に学ぶ者の国家を担おうとする覚悟が薄いと見た森の危機感などに立ち入って分析する必要があると考えている。著者の引用する1889年2月の演説にある通り、森は晩年には大学は国家のためにのみ存在すると語っていたが、1886年の帝国大学令制定の頃は、教育は国家と個人の両方のために行われることを認めており、一定の変化がこの間に生じたと考えることが適当であろう。著者のように、或いは森に関する先駆的な研究者である林竹二のように、森が十代のころに所属していたアメリカの教団、新生社の影響が、晩年に至るまで尾を引いたと考えるのは行き過ぎであろう。

第5章では、本書の中では特異的に個人が取り上げられ、早世した哲学者、大西祝の教育における活動が論じられる。第6章では辣腕で知られる官僚・政治家の奥田義人の文部大臣時代の帝国大学令改正案(1914年)などが検討される。奥田は科学史では伝染病研究所の移管問題などでよりよく知られているかもしれない。第7章では、山川健次郎の2回目の東京帝大総長時代に設置された帝国大学制度調査委員会(1918年)の活動が論じられる。第6・7章は、1918年から翌年にかけての高等教育の全国規模での変革の、東京帝大から見た前史としても読むことが出来る。

一つ飛ばして、第9章は大学学年暦の変遷を辿っており、特に1921年の学年始期の9月から4月への変更の分析は、その逆への変更が提案される近年の状況からすると示唆に富む。大学の学年暦は、中等教育や会計年度の実情を無視しては決められないもののようである。第10章では、企業と大学の関わりが取り上げられ、戦前期の企業による大学への支援が、利益の国家への還元を目的とするものから、産学共同の萌芽的形態へと変化していったことが指摘される。

第8章では、1920年に発表された連合工業調査委員会の「工業教育刷新案」と、同委員会と多くの構成員が重なる東京帝大工学部の1919年と1925年の改革とのつながりが論じられる。第一次大戦前後に顕著になった、科学研究の技術に対する影響の深化を受けて、工学分野からの教育改革案が提示されたが、学科間の障壁を越えて共通した基礎研究を行うといった提案は、東京帝大工学部では一部が実現を見るにとどまった。この時期には、第2章で著者が指摘した実地教育の重要性は薄れ、むしろ急速に進展する科学研究への対応が求められたこと、しかし日本では学問としての自律性を確保していた工学は科学の取り入れに後れが生じたことが分かる。

理学と工学の関わりについては第11章でもわずかに触れられており、東京大学(1877年-1886年)理学部の中にあった工学系諸学科では理学部全体で共通する基礎科学の教育が行われていたこと、これが帝国大学工科大学では引き継がれず、理学と工学の分離が起こったことが指摘されている。もっとも、科学史の視点からいえば、帝国大学設立のころには、その後に起こった放射能・エックス線の発見などに端を発する科学研究の大展開や、無線通信の実現、真空管の発明などが予測できないのが当然であり、いったんは工学と理学を分け、日本にとっても必要な前者により大きな資源を振り向けるという選択も無理のないものであったように思われる。なお、通史的な第12・13章でも、大学を舞台とした科学の誕生とそれによる教育内容と制度の変化、技術的内容への関心の高まりとその採用は、記述すべき課題として意識されている。

本書のもとになる論文が書かれた1970年代前半といえば、日本の生んだ学術の成果が、例えばノーベル賞受賞といった分かり易い評価を受けた例も少なく、プラザ合意で日本全体が自国の国際競争力を意識する以前であった。このため、本書全体が、日本の学術の成果としては戦前期に見るべきものはあまりなく(297ページ)、戦後も日本の科学技術は自立していない(261ページ)という了解の下に置かれているように思われる。実際には、東京帝大との関わりは小さいが、湯川秀樹の中間子理論はすでに1934年に発表されており、太平洋戦争中の1942年には科学研究の成果を取り入れた技術系人材育成の機関として東京帝大に第二工学部が設けられている。戦後の科学研究の成果は、21世紀に入ってからの日本の研究者のノーベル賞受賞により広く知られるようになった。著者の成果を科学史で引き継いでいくとすれば、戦前期も含めた日本の到達度に対して、いったんは政治的な枠組みを離れて評価を与えつつ、国際比較を適切に行いながら日本の大学の特質を描くことが求められよう。

 

(東京大学大学院総合文化研究科 准教授 岡本拓司)

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