【書評】池岡義孝・西原和久編『戦後日本社会のリアリティ——せめぎあうパラダイム』

池岡義孝・西原和久編『戦後日本社会のリアリティ——せめぎあうパラダイム

社会学評論 68 p.589より

戦後社会学のリアリティ

本書は、「戦後日本社会が歩んだ道」を「日本社会の変動」を念頭に「せめぎあうパラダイム」に留意して論じようとした意欲的な試みである。西村和久の終章によれば、日本社会学による①家族・親族(第1章・池岡義孝)や農村(第2章・吉野英岐)、都市(第3章・藤田弘夫)、②階級・階層(第4章・丹辺宣彦)や企業(第5章・山下充)、③教育(第6章・中西祐子)や宗教(第7章・島薗進)、社会意識(第8章・佐藤健二)への取り組みを論じた各章からなる。個々では、印象的だった4つの章を辿ることで書評に代えたい。

全章のうち最も明瞭な輪郭で学の歩みを描いたのは、池岡義孝「家族社会学からみる日本の社会と家族のリアリティ」だと思う。本章は、副題である「家族社会学の成立と展開」を4期に区分する。戦前期に「家」や「同族」などをテーマに歴史学、民俗学、民族学などと未分化になされていた家族研究は、1960年までの確立期に「伝統的家族はどうなるか」と「家制度に代わる民主的・近代的家族はいかなる家族か」という2課題に取り組むなか有賀喜左衛門と小山隆の主導で分岐し、1955年の小山による「家族問題研究会」の設立にいたる。1960年代の「核家族論争」を経て70年代に「核家族パラダイム」に依拠する隆盛期を迎えるが、80年代には民主化・近代化・核家族などの理念の相対化により新たなパラダイムを模索する転換期に入る。いわば家族のプレモダン/モダン/ポストモダン二対応するパラダイムのせめぎあいを軸に、池岡は家族社会の歴史をくっきりと跡づける。

これに対し藤田弘夫の遺稿「日本の都市社会史をどのように考えるか——都市社会学発展の多様性と多系性」は、都市社会学が発展するとともに多様に拡散し、もはやどのパラダイムとどのパラダイムがせめぎあっているのかわからないとの認識を基調とする。明治期の松原岩五郎や横山源之助のルポタージュ、1992年の東京市政調査会創設、奥井複太郎・磯村英一の都市研究、1953年の日本都市学会結成など、本章は60年代までは個別研究者による論点を扱うが、それ以降は「都市社会学は研究グループや学会によって大きく異なる」としてこうした叙述は放棄される。この時期・年を専門とする社会学者は増加したが、都市研究は「日本都市学会が意図した総合化」でなく「分化」に向かい、「都市とは何か」という問いとのかかわりを失う。都市をめぐる学会も多数組織されるが、一方で重要な研究が他方で触れられないことも日常的で、論文は「教育官僚の年次報告書」になりかけている。藤田は「社会学の多くの分野は、名称はともかく実態は蒸発しているのかもしれない」と警鐘を鳴らす。

佐藤健二「流言研究と『社会』認識——戦後日本社会学における『社会的なるもの』への創造力」は冒頭にこう記す。「いつのまにか社会学の研究者自身が、『社会 society』ということばの輪郭や内実を問わなくなった」。「社会」が名刺として自明化され、形容詞「社会的なるもの the social」がもつ「消滅したり、そもそも存在していなかったり」するという意味が失われる。この「社会ということばの衰弱」は、「社会的意識論」が研究療育として印象が薄れるという変容とじかにつながる。佐藤は清水磯太郎『流言蜚語』の1937年版と1947年版の比較、「社会意識論」と「社会心理学」の対比など刺激的な議論を展開するが、末尾近くで、アカデミズムで社会学が学問分野として成立した結果「学的実践の本質をめぐる『学論』」や「社会調査技術以外の『方法論』」が忘れ去られつつあり、「社会的なるもの」を想像して描き出すための「ことばの力の回復と洗練」こそが課題だと主張する。

これら各章はある「領域」に社会学研究の歩みをめぐる議論であった。では、戦後の「日本社会学」そのものはどうなのか。

終章の西原和久「日本における社会学理論の展開——グローバル化する21世紀社会への課題」は、「社会学理論」の歩みを描くとともに本書全体をまとめ「日本社会学」の歩みをとらえ直すねらいをもつ。章の前半は戦前・戦後の「日本社会と日本社会学」を扱うが、戦前についてはスペンサー、コント、ヴェーバー、ジンメルの導入、高田保馬『社会関係論』、日本資本主義論争に応じた農村分析の紹介などにとどまり、戦後は高田『世界社会論』に触れたあと『社会学評論』の特集・論文における15年ごとの欧米社会学者の言及数から「せめぎあうパラダイム」の抽出を試みる。後半は講座ものや理論概説書を検討して、1990年代後半から「グローバル化」が「日本の社会学的思考の中心」に踊り出、「グローバルな現実」への「コスモポリタン的対応」が社会学・社会学理論の展開で強く求められているとする。

細やかな苦心に満ちた本章がいうように、「グローバル化」が俺からの課題であることは異論ないだろう。だが本章の印象は、池岡が描いたような明確な輪郭を結ばない。日本の社会学にはいまどんなパラダイムの「せめぎあい」があるのか(そもそも「パラダイム」など存在するのか)。藤田が論じたように、多様化が進み「○○社会学」は発展するが「社会学」は蒸発しているのではないか。佐藤が問うように、学を駆動する「社会学的なるもの」への問を見失っているのではないか。

本書はこれらの問へと次に続く者を勇気づける力をもつ。この試みへの深い敬意とともに、本評を結びたい。

 

(関西学院大学教授 奥村隆 評)

戦後日本社会学のリアリティ——せめぎあうパラダイム

【東信堂 本体価格2,600円】

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