【書評】絹川正吉著『リベラル・アーツの源流を訪ねて』

大学教育学会誌  第41巻 第1号 2019年5月

 

松岡信之より

 

本学会は1979年に一般教育に関する研究をすすめ,一般教育の振興を医ることを目的とした「一般教育学会」としてスタートした.その後,大学設置基準の改正 を受けて,1997年から学会名称は現在の「大学教育学会」に変更された.しかし,学会の本質は一般教育・教 養教育を研究することであるという趣旨を残すために英 語名称は変更せずに “Liberal and General Education Society of Japan” を残したのである.その後日本語名称と英語名称の間の罰顧が間題となり,2014年から英語名称を ”Japan Association for College and University Education” に変更した.また,法人化により学会の定款も変更されたが,定款の3条に「この法人は,大学教育特に一般教育,教養教育及び学士課程教育に関しての研究発表,研究活動,知識の交換,国内外の関連学会等との連携協力を行う……」ということを明記し,「一般教育教養教育」の研究を課題としている学会であることを示している.
いささか冗長になったが, 学会が発足して40年の節目 にあたるときに改めて「リベラル・アー ツ」,「一般教育」を考え,本学会に深く関わった著者の思いに触れることは意義あることであると思う.

著者は ,はしがきで『本書著者は,「リベラル・アーツ」を「一般教育」という視点で受け止め,半世紀の間,それを探求し続けてきた.しかし,いま「一般教育」は死語になってしまった』と記し,そして『このような状況の下であえて自らの「リベラル・アーツの源泉」に立ち帰ることを試み.「一般教育」という課題を改めて提起したいと思った』と記している。

本書は,著者が記しているように,自らの「リベラル・アーツの源泉」に立ち帰り,そこから「一般教育」という課題を提起しようとしたものである.従って「そもそもリベラル・アーツとは」とか「一般教育とは」といった一般論の解説書ではなく,著者自身が「リベラル・アーツ」や「一般教育」をどのように受け止めてきたのかという著者自身の思いがほとばしり出たものとなっている.

ファクション(faction)

著者のほとばしる思いは単なる独りよがりの思い付きではない.著者はこの本でファクション(faction) を語ると言う.ファクションとは事実(fact)に基づきながらフィクション(fiction)を設定して間題をより純粋に検証していくという発想で,純粋なファクト (fact) ではないが,フィクション(fiction)とも言いきれないものをあえてファクション(faction) を名付けている.
著者は数学者としての専門の領域を踏まえながら,あえて越境してギリシャ思想やリベラル ・ アーツを語っている.このことは歴史の事実に著者自身の理解を加え「ファクション」を語るということなのであり,このような自己を介在させた取り組みが「一般教育」の重要な要素であるというのが,著者の一つの主張であろう.

リベラル・アーツの源泉とは

本書のI章からW章までは,古代ギリシャの哲学者の思想から近世のデカルト,ニュー トンなどの思想を紹介しており,これまで人問がどのように世界を理解してきたのか,そしてその理解の方法に数学や幾何学がどのように関わってきたのかを論じており,かつて著者自身が担当していた数学に関する一般教育科Hの内容と重なるものとなっている.まさに著者自身の一般教育の実践記録と言える.ここで紹介される数学の世界は,単なる計算術にとどまらず,世界を理解する基本となる「幾何学」,「天文学」,「音楽」などにつながり,さらには論理学的な思考の基礎となったことを示している。

これらの内容は,ター レスは「哲学の祖」と言われ「世界の始まりの根源物質は水であると唱えた」とか,ピタゴラスは「万物は数であると言った」というような表面的な知識をもって入学してきた学生に大きなインパクトを与えたであろう,何かを知っているということではなく,その何かの背景にあることに自分自身の思考を関わらせることの面白さに気づかせたに違いない.
「リベラル・ア ーツ」の源泉を考えるには古代ギリシャの自由市民が「アルテス・リベラーリス」として何を考え,何に感動し,何を伝えようとしたのかを知ること.また何に囚われ,囚われていたものから解き放たれるためにどのように考えたかを知ることが必要となるであろう.しかしこのことは「リベラル・アーツとはこう考えられてきた」という知識を得るだけに終わってしまい,今の私,今の学生にとってのリベラル・アーツ(自分を自由にする学芸)とはなり得ない.著者の言う「源泉を訪ねる」とは,古代の思想をたどって知識を得ることではなく,ギリシャの自由市民が何を考え,何に感動し,何を伝えようとしたのかを追体験して私にとってのリべラル・アーツを追究し,「私自身が知る」,「私自身が発見する」という感動に触れることを指しているのではなかろうか.

本書を読み進めながら常に念頭にあったことは,冒頭 で著者が言う,「リベラル・アー ツ」を「一般教育」という視点で受け止めるということであり.また,「ファクションを語る」というキーワードである.

これまで伝えられてきている様々な事実(fact)に自分自身の感覚,感性を重ね合わせ著者のいうファクションとして心に刻むこと,ファクションとして自分自身を関与させる過程を経ることで,古代ギリシャの自由市民にとってのリベラル・アーツが現代を生きる自分にとっても意味を持つものとして理解することになるとしているのではなかろうか.古代の哲学者の思索を自分自身と結びつける過程が「リベラル・アーツ」を「一般教育」という視点で受け止めるということに繋がるのではないかと理解してみた.

科学論を持つ

第v章では「科学」ということに対する様々な見解が紹介されて,第Ⅳ章でも触れられていた古代ギリシャの人々の自然への対応や理解の方法,科学と宗教の関連,主観と客観の分離の問題, 科学の特質とされる没価値性といった根本的な問題が提起され,現代私たちが普通に用いる「科学的」ということの本質を問い直す必要があることを指摘している.

この章の冒頭で著者は「これからサイエンスに携わる人は,自分の科学論を持たなければならないと思う」と述べている.「科学論」とは「科学」ということに対する考え方,とらえ方ということもできるが,より根本的にものごとやできごとに対する思考の方法,基軸の立て方というとらえ方もできる.したがって,古代ギリシャの思想や西欧の思想だけでなく,東洋的な思想によ る世界のとらえ方,さらに近年の科学批判の論点を理解して,広い視野のもとに自身の基軸を持つことが必要になるというのが著者の意図するところではないかと思う.

21世紀の一般教育

第VI章は,著者が以前著した『「大学の死」そして復活』に対する書評への応答をもとに,著者の主張をより鮮明にしている.

本書で,著者は「リベラル・アーツを一般教育という視点で受け止めて探求し続けてきた」と述べ,古代からの学術や思想の変遷について紹介をしているが, V章までには「一般教育」ということについての具体的な記述はない.この章では「一般教育という視点」を示す一つのキーワードとして「欠如態の認識」という言葉が示される.大掴みの理解だが,専門の知を相対的に見ること,これまでの枠組みでは解決が難しく新たな枠組みを必要とするという認識を持つこと(欠如態であることの認識)が大切で,この認識を深める教育として,「一般 教育」を位置づけるということではなかろうか.
学生は大学で学ぶ専門の知識を絶対的なものとして受け容れざるを得ない.しかし,知識を受け容れるだけでなく能動的に学ぶ姿勢を作るには,学生に,まだ学ぶこと,考えることがあることに気づかせる(欠如態であることの認識させる)必要がある.近年盛んに議論されている「課題発見・課題解決型教育」や「アクティブ・ラーニング」の方向は ,著者の言う「欠如態の認識」,「一般教育の課題」ということで繋がるように思える.

リベラル・アーツの系譜

最終章では古代から中世そして近代と受け継がれてきた「リベラル・アーツ」について整理されており,「リ ベラル・アーツ」がそれぞれの時代が要求した側面を現していることを紹介している.さらにこの「リベラル・アーツ」が,20世紀初頭以降の高等教育機関で「一般教育(General Education)」として展開されてきたことが紹介される.

アメリカにおける”General Education”は,様々な背景のもとに様々な側面が強調され一概に論じることは出来ない.またわが国の一般教育についても,学ぶということへの導入,高等普通教育,専門への入門,といったように様々な議論が交わされてきて一言で説明しきれない.著者のいう「一般教育」とは,これらの議論と重なる部分があるが,それでは説明しきれない内容を含んでいるように感じる.著者が強調するのは,学生が自分自身を介入させて「ファクション」を語ることを支援する教育が重要であるということであろう.

 

(元 国際基督教大学 松岡信之)

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