【書評】堀雅晴著『現代行政学とガバナンス研究』

【書評】堀雅晴著『現代行政学とガバナンス研究

年報行政研究53号 p.200 書評より

「ガバナンス」という概念は、きわめて多様である。本書の序章において、堀氏は、ガバメントとガバナンスをつぎのように概念づけている。

ガバメントとは、「国家(政府)が国民の自己統治として国民を支配し、行政機関が住民や団体等へのサービス提供屋規制等に係る管理運営を担当し、両者の関係性は独占的で閉鎖的なヒエラルキー的・垂直的と特徴づけられるものである」(4-5ページ)。

それに対して、ガバナンスとは、「非・国家(政府)や非・行政機関が国家(政府)・行政機関と対等な関係の有無に係りなくガバナンス自体で公共サービスや規制活動を担い、両者の関係性はその有無に係りなく、ガバナンス自体として非独占・開放的なノン・ヒエラルキー/へテラルキー的・水平的関係と特徴づけることが出来るもの」である(5ページ)。

このように、堀氏は、ガバメントとガバナンスを実態概念としてとらえ、それぞれ独立したものとして自立させるわけである。前者はヒエラルキー的・垂直的・閉鎖的・独占的なものであり、後者はへテラルキー的・水平的・開放的・非独占的なものとして、それぞれスタンドアローンの実態を付与される。ガバメントとガバナンスを実態として対抗的なものであるととらえるならば、「ガバメントからガバナンスへ」というパラダイム・チェンジの発想をすんなりと受け入れることができるであろう。

しかしながら、ことはそう簡単ではない。当然にも、両者のあいだには「統治という行為」(governing)というファクターが介在してくるわけであり、ガバメントが遂行する「統治という行為」によって成果があがった、すなわちガバナンスの質的な向上がみられたといったデノテーションも成立するのである。国家によるステアリングを重視するガイ・ピーターズやヨン・ピーレらの「修正版新制度論」の立場が、こうした見方を後押しする。

つまり、ガバナンスという概念をガバメントのミラーイメージとしてスタンドアローン化してしまうと、ガバメントと対抗しながらもそれを補完する役割を演じるという関係性が見えなくなってしまいかねないのである。それを避けるためには、ガバナンスを関係概念としてとらえかえす視点を導入することが問われてくる。

ガバメントとガバナンスを関係概念としてとらえ、両者のあいだには対抗的相補性という関係性が成り立っている、と評者が強調してきた所以がここにある。ガバナンスという概念とは何かと問いかけられた場合には、公・私・共の三圏域のそれぞれにおいて、そして三圏域にまたがって「統治を行う行為」(governing)が介在するという意味で、公共圏域をなすガバメントとのあいだで対抗的相補性を形づくっている相互関係がガバナンスであるというほかはないのである。

ところで、政治学や行政学がおもな対象領域とする公共圏域だけでも、ガバメント(中央、政府)によるガバナンスについて、⑴中央政府内ガバナンス、⑵地方政府内ガバナンス、⑶地方政府間ガバナンス、⑷中央・政府間ガバナンスという四つに分類することができる。

堀氏は、政府間関係においては「国(単数)のガバメントと地方(複数)のガバメントの間の関係性」であるのに対して、ガバナンス論における政府間関係は「地方(複数)のガバナンスおよび地方(複数)の間のメタガバナンス」であるべきだとしている(168ページ)。堀氏は、中央政府をただ一つのメタ・レベルに位置づけて政府間関係について語るのはやめようといいたいのだろうが、何をメタ・レベルとするのかはその場合に応じた相互の関係性によって決まるのだから、分類としては垂直的な政府間関係と水平的な政府間関係があるとしておくだけでかまわないのである。

また、それぞれの内部においても、外部との関係においても、垂直的編成と水平的編成をみてとることができるのはいうまでもない。垂直的編成において大きな鍵を握るのは、エンパワーメントである。堀氏はエンパワーメントを「権能付与」と表現しているが、より強い意味を込めて「権能委譲」と、さらにはもっと積極的な意味で「権限移譲」と表現してもいいだろう。

「『エンパワーメント』は下位者と顧客の両方に権能を付与することで、下位者には自分の職務に対するコントロールとアカウンタビリティが、顧客は増大された権能を活用した参加意欲の高揚と顧客志向型サービスへの期待増大が、それぞれ約束されることになる。/以上の指摘は、日本の状況からみるとどうか。一言でいって、課題設定それ自体があいまいなままの状況である」(37ページ)。

そのとおりである。ここで、堀氏は、期せずして伏在する大きな課題を剔出しているといえる。垂直的編成をなすハイアラーキーの下位者を誠実な職務遂行専任義務者のまま放置するのでは、まさに「あいまいなままの状況」にとどまってしまう。下位者の側からの垂直的なフィードバック・ループ、すなわちボトムアップの回路を措定しなければ、ガバメントのハイアラーキー内ガバナンスの質的なバージョンアップは望みようがない。その意味において、彼らは、ハイアラーキー内の「ステイクホールダー」(利害関係当事者)として、この垂直的編成のなかでの補完構造、すなわち対抗的相補性を形づくらなければならないのである。これが、ネットワーク論者のロッド・ローズのいう垂直的な「政策ネットワーク」の意味するところである。

さらに、顧客としての市民(国民、住民)についても、公共セクターをなす行政の単なる客体にとどめるわけにはいかない。アソシエーションという集団形成を行う「ステイクホールダー」としての能動的な市民たちに権限を委譲し、さらに権限を移譲することによって政策形成や政策遂行野責任分担者という主体へとバージョンアップを図らなければならない。堀氏が提起する「市民性公務員」(42ページ)という案もまた、垂直的な「政策ネットワーク」において対抗的相補性を形づくっていく重要なファクターになりうると言えよう。

つづいて、堀氏は、ケトルに倣って、アメリカ行政学の枠組みについて⑴ウィルソン型・ヒエラルキー型、⑵マディソン型・権力バランス型、⑶ハミルトン型・トップダウン型、⑷ジェファーソン型・ボトムアップ型を組み合わせたパラダイムによって紹介する(48ページ)。ハミルトン・ウィルソン型には、伝統的な公共管理論、プリンシパル-エージェント理論、NPM、そしてクリントン政権下のNPR(政府機能の再吟味)が含まれる。また、ハミルトン・マディソン型には、NPRのうち下位者への権限委譲、顧客サービスの向上といったファクターが、ジェファーソン・マディソン型にはネットワーク理論が含まれる。

堀氏は、ここでの小括として、コミュニティ-市町村-広域行政-中央政府のアクター間をボトムアップ型システムの構築へと収斂させ、制度の肥大化や濫立化を防ぎ、リソースの効果的な投入をめざすシナジー・アプローチによる制度デザインが必要であるかぎり、ジェファーソン・マディソン型をベースにした「ジェファーソン・ウィルソン・マディソン型の理論・制度デザイン」研究が必要であると強調する(61ページ)。これが行政学の進むべき方向性なのだとすれば、JWM型の理論と制度デザインがどのようなものなのか、大枠的な見通しなりを提示してほしいところだろう。

つぎに、堀氏が「反基礎付けアプローチ」とするローズらのネットワーク論と、ピーターズやピーレの国家ステアリングによる「国家中心アプローチ」(拙論では「修正版新制度論」)についての評価をめぐっては、オランダ学派のエリク=ハンス・クリンのガバナンス・ネットワーク論やデンマークのヤコブ・トルフィングの相互作用型ガバナンス論の視点を付加しながら論じられている。

堀氏の暫定的な結論を先取りするならば、ローズとその弟子ベヴィアが唱える反基礎づけ主義の立場からモダニズムにたいする批判によりそう視点に自らの立場を定めるということである。彼らは、「脱中心化」を唱え、「国家なき国家」(stateless state)という境地にまだ進んでいくわけである。

政治学や行政学を専門にする研究者からすれば、「国家のない国家」や「中央政府を持たない国家」など想像したこともないだろう。したがって、研究者たちの大半は、ピーターズやピーレたちの国家や中央政府によるコントロール、すなわち「国家中心アプローチ」のほうをすんなりと受け入れるはずなのである。

問題は、基礎づけ主義(foundationalism)にもとづいた実証研究がすべてなのかということである。国家や中央政府によるステアリングが唯一のものだということになれば、その下位システムに属する人たちを「ステイクホールダー」ととらえて、上位システムに対する下位システムからのフィードバック・ループが必要であるといった垂直的な「政策ネットワーク」の考え方さえも無用であるという思考停止に帰着してしまう。

ローズとベヴィアは、国家、制度、構造、法といった既存の枠組みを所与のもの、つまり当たり前のものとして受け入れる規範主義、基礎づけ主義をいったん括弧にいれ、エポケーの状態にしたうえで見なおしてみようではないかというわけで、「反基礎づけ主義」という再基礎づけを試みるのである。残念ながら、評者のみるところ、彼らの試みが成功しているとはいいがたい。

そこで、ガバメントとガバナンスという二つの概念の双方向的な歩みよりというセカンド・ベストの解決策を探る試行錯誤の果てに、堀氏が紹介しているように、「ガバナンスとはガバナンス・ネットワークのなかで起こっているプロセスのことであり、政府・ビジネス・市民社会の各アクターのネットワークによる公共政策の形成・執行(とりわけ公民パートナーシップ・相互作用型政策形成)に着目する必要がある」(95ページ)とするクリンの考え方が、ガバナンスの定義づけとしてもっとも幸便な落としどころといえるのではないだろうかという暫定的な結論に達するわけである。

さて、本書の最終章では、マルクスへのオマージュが披露されている。評者にしてみれば、思わざるデジャブに遭遇した思いに駆られるものではあるが、敬慕の念は訴求効果をうながすには役に立つだろうが、未知の道程を拓いていくレバレッジとはなりえないのではないだろうか。堀氏は、マルクスのアソシエーション論をベースにして、「ガバメント無きガバナンス」論が新しい社会の自己統治像を包摂しうるものであるという意味で、マルクスのコンミューン論と通底していると評価している(164、173ページ)。たしかに、現今の市民社会においても、コミュニティにおける団体組織の自律性(autonomy)、自己統治がもたらすガバナンスの質的なバージョンアップや求心力のアップグレードという意味ではアソシエーション論は有効である。

しかし、われわれはマルクスとはまったく異なった時代状況におかれているわけであり、ローズらのガバナンス論をマルクスのコンミューン論と同じレベルで比較考量するのは無理があるだろう。堀氏は、マルクスの『フランスの内乱』に焦点をあてて、コンミューンが「ついに発見された政治形態」であるというきわめつけのフレーズに賛同しているようにみえる。

だが、堀氏があまり重視していない『ドイツ・イデオロギー』や『ゴータ綱領批判』のなかで展開された未来社会の構想をめぐって、マルクスとエンゲルスは、はたしてフーリエが唱えた「ファランジュ」以上のレバレッジを提起することができたといえるのだろうか? 計画経済をもっとも合理的かつ効率的に実現したといえるわが国の現実をみるにつけ、マルクスとエンゲルスが描き出した未来像は余りにも牧歌的で素朴なものだったといわざるをえないのである。

すこしばかり辛口の評論になってしまったかもしれないが、評者もまた、堀氏が多年にわたって内外の膨大な書籍を渉猟し、原著者たちと直接対話を交わすことによってえられた境位を多する一人であることを申し添えておきたいと思う。

(山本啓 評)

現代行政とガバナンス研究

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