【書評】菊地かおり著『イングランドのシティズンシップ教育政策の展開――カリキュラム改革に見る国民意識の形成に着目して』

【書評】菊池かおり著『イングランドのシティズンシップ教育政策の展開-カリキュラム改革に見る国民意識の形成に着目して』

(A5・232頁・¥3200+税)

日本比較教育学会 比較教育学研究第58号 2019年

 

 

谷口和也(東北大学大学院教育学研究科)より

 

 シティズンシップ(市民権)とは何か。シティズンシップ教育でめざす市民とは、どのような社会や集団のどのような資質や意識を持った人びとか。これらの問いに対する答えは、社会的・文化的文脈によって様々である。特に英国では、英国とそれ以外の大英帝国内の諸地域を包括する「帝国に由来するシティズンシップ」(Imperial citizenship)観を永らく保持してきた。これは国民国家とナショナル・アイデンティティが単純に結びつく他国とは異なる考えで、いわゆる英国以外の旧大英帝国内の人びとの「地位」や「政治的権利」、「大英帝国臣民としてアイデンティティ」についてどう扱うかは、英国固有の問題であった。例えば「地位としてのシティズンシップ」については、1962年の移民法以前は旧大英帝国域内からの移民は自由に英国に居住できたこと。「権利としてのシティズンシップ」については、コモン・ローの伝統のもと国籍と権利が直接的に結び付けられずに論じられてきたこと。そしてEU市民、英国民、イングランド国民等の重層的なアイデンティティをいまだに保持していることなど、他国では顕在化しにくいシティズンシップの問題が英国にはある。当然これらは、イングランド等で「シティズンシップ」(教科)の共通のカリキュラムを構築しようとする際にクリアしておかねばならない問題となる。本書のねらいは、シティズンシップとその教育をめぐる普遍的な問題を、「シティズンシップ」の共通カリキュラムの作成過程を通じて明らかにしていくことにある。その際に本書は、この英国独自の「帝国に由来するシティズンシップ」観に関わるシティズンシップの重層性を、シティズンシップ教育を整理・分析する視点として用いている。

 本書は、イングランドとウエールズとが初めて共通のカリキュラムを作成した1988年の教育改革法を起点として実質的な議論を始めている。その際に本書は、(1)1988年教育改革法によって提案された強化横断的「シティズンシップ」教育とシティズンシップ委員会の審議過程、(2)労働党政権下で答申された通称「クリック・レポート」と2000年から開始された教科「シティズンシップ」のカリキュラム、(3)2000年代の社会問題や移民・国籍政策の変化を受け、改めて英国らしさ(Britishness)が議論された2007年の通称「アジェグボ・レポート」と2008年からのカリキュラム、この三つを核に議論を進めている。

 もともと共通するカリキュラムを持たなかった英国では、ナショナル・アイデンティティに関する共通教育もなかった。1944年の教育法で対ナチズム国民統合の必要から共通のアイデンティティを教育に盛り込もうとした際にも、英国国教会の教義を基盤とする宗教教育しか共通の価値を置くことができなかった。さらに宗教教育を軸に国民の統合を図るというこの考えも、1960年代の通称「スワン・リポート」以降は、多様な宗教を前提とした世俗化されたものへと段階的に変化していった。その結果、1993年のモデル・シラバスの導入まで、学校教育で価値を共有するという考え方は弱まったいった。半面、「帝国に由来するシティズンシップ」観の伝統は、移民政策の変化にともない国民国家と結びつけられた「普通の」シティズンシップ観へとシフトしていった。さらに2000年代には、「価値の共有」について議論が盛んになってきた。特に2005年のロンドン同時爆破テロでは、英国民でありながら国家より宗教的集団により強い帰属感を感じる市民の存在が社会に衝撃を与え、社会の多様性を保持しつつも国家としての一体感を形成する必要性が論じられた。

 本書は、このような英国社会の変化が共通のシティズンシップ教育に反映されたとの考えから、シティズンシップに関わる教育政策の展開と作成された三つの共通カリキュラムを分析している。そして、従前の「帝国に由来するシティズンシップ」の伝統下で曖昧に扱われてきたシティズンシップ観の問い直しと、これらを包摂する広義のナショナル・アイデンティティの再定義過程から、教科「シティズンシップ」の形成過程を論じている。つまり英国では、移民問題の増加や社会の多文化化に伴って「ブリテン国民(British citizen)」と「居住者(または移住者)」、「地位としてのシティズンシップ」と「権利としてのシティズンシップ」、「ナショナル・アイデンティティ」と「包摂の境界」等の関係が教育政策の展開の中で徐々に再定義されるようになり、それが「シティズンシップ」の共通カリキュラムに反映されたというのである。本書は、このような再定義の過程を「帝国に由来するシティズンシップ」観が再構築される過程と表現している。

 本書では、最終的にイングランドのシティズンシップ教育においては、「制度的多文化主義」を掲げながらも包摂の境界として連合王国(United Kingdom)が再び強調されるようになったと分析している。そしてシティズンシップ教育は、連合王国という枠組みの中で制度的プロセスとして実践される多文化主義を基盤とし、連合王国の政治に参画し、権利を行使し、義務を負う市民の育成を通して、多様性を包摂し社会統合を図っていくものとなったと結論付けている。それゆえ、本書は、アジェグボ(Keith Ajegbo)の委員会のメンバーで、この問題に関して主要な役割を果たしたキワン(Dina Kiwan)らの考えで議論をまとめている。

 先行研究では、「国籍(地位)の有無」「権利主体」「アイデンティティ」が明確に区別されない「国民国家と関連付けられるシティズンシップ」観を前提にシティズンシップを論じることが多かった。これに対して本書は、これらの三つの違いに着目しつつ英国のシティズンシップ観を論じている。それによって現代の複雑な国家や社会、集団とシティズンシップの関係を明らかにするとともに、そこにおける市民の関りを明らかにすることに成功している。本書のこの様な視点は、現在のグローバル化し流動化する今後の社会におけるシティズンシップ観を論じる上で有効な視点となろう。その反面、シティズンシップ教育と国民形成について、ここで得られた知見をもとに以下の点でさらなる追求や考察が期待されよう。

 まず、本書が教育政策の変化を後付けした短い共通カリキュラムの文面ではなく、実践されていた「シティズンシップ」での具体的議論を期待したい。たしかに英国では学校レベルのカリキュラム・マネジメントの部分が大きく、公的な文書や教科書から実践を再現することは難しい。しかし、その方法が無いわけではない。例えば、教科「シティズンシップ」導入直後にはそれを専門とする教員は存在せず、多くの学校で世界史等の教員が自分の専門科目を通して「シティズンシップ」を教えていた。そこでは伝統的な「帝国に由来するシティズンシップ」観に基づく教養主義的な教育が幅を利かせていたのではないか。またその後、英国各地の大学で「シティズンシップ」養成コースができたが、それらは先にあげた世界史や政治教育的なもの、「クリック・レポート」の思想を踏襲したもの以外にも、サービス・ラーニングやPSHE的なもの等いくつかのパターンがあった。これら教員養成コースの内容は、各大学が新教科「シティズンシップ」をどう捉え、どのような知識や思想、行動が市民には必要かが具体的に表れていた。

 また本書は政治的・制度的文脈での議論が中心で、英国のシティズンシップ教育が持つ宗教的背景についてほとんど触れられていない。例えば、1944年の教育法や、英国シティズンシップ教育の源流ともいえるスカウト運動にキリスト教的基盤があったことは事実であり、連合王国のまとまりやアイデンティティの基盤を英国国教会の思想に置いたことを過小評価してはならない。例えば1933年のモデル・シラバスの構成にも見られるように、英国において「多様性」と「包括性」の問題は、常に宗教的多様性と国家や社会の包括性との関係に深くかかわってきた。そうすると、2005年のロンドン同時爆破テロ後に出されたキワンの「制度的多文化主義」は、その包括性を保持しながら実利的・制度的な面での統合を促そうとしたものであろう。また宗教的文脈を注意深く検討することで、異なる主張が同じ言葉を使用して論じている正義、多様性、寛容、尊重、自由、奉仕等の概念の違いや、その背景にある社会観や市民像もより明確にできよう。

 とはいえ、英国が持つ重層的なシティズンシップの変遷に着目し、三つの共通カリキュラムの作成過程と関連する教育政策の展開を論じた方法は卓越したものである。それゆえ本書は、イギリス研究者のみならず流動化しグローバル化した社会における教育を論じる多くの方に一読いただきたい著書となっている。

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