【書評】菊地かおり著『イングランドのシティズンシップ教育政策の展開』

【書評】菊地かおり著『イングランドのシティズンシップ教育政策の展開 カリキュラム改革にみる国民意識の形成に注目して』

『教育学研究』 第86巻 第2号 2019年6月

片山 勝茂(東京大学)より

本書は、著者が筑波大学より博士(教育学)の学位を授与された論文を一部修正したものである。

本書の目的は、「共通カリキュラム導入以降のイングランドにおけるシティズンシップ教育政策を取り上げ、カリキュラム改革をめぐる議論にみる国民意識の形成にかかわる論点の変化を明らかにすること」とされている。

本書の構成と内容

序章は、上記の目的を達成するため、三つの研究課題を設定する。すなわち、「ブリテンにおける帝国に由来するシティズンシップの特質を整理する」、「シティズンシップ教育政策と、シティズンシップが鍵概念となる他の政策領域(移民政策等)に接点が見られることを指摘する」、「シティズンシップ教育を通じた国民意識の形成について、中核となる価値の位置づけに焦点あててを明らかにする」という三つである。

第1章「帝国に由来するシティズンシップの特質」は、連合王国/ブリテンにおけるシティズンシップの特徴を、地位(国籍)、権利、アイデンティティという三側面から整理する。まず、ブリテン国民という法的地位は1981年にようやく創設されており、ブリティッシュネス(ブリテン人意識)というアイデンティティと結び付けられていない。次に、ブリテン国民という地位に付随するのは連合王国への入国及び居住の権利のみであり、他の権利は様々な法令に由来するか、議会が禁じていないことに由来する。最後に、連合王国/ブリテンではナショナル・アイデンティティが重層的に存在し、教育とナショナル・アイデンティティの形成は明確に関連付けられてこなかったとする。

第2章「シティズンシップをめぐる共通認識の欠如」は、保守党政権下の第1期カリキュラム改革(1988~1990年)を取り上げる。イングランドでは1988年教育改革法により初めて共通カリキュラムが導入され、教育課程審議会(NCC)はシティズンシップ教育を教科横断型テーマの一つとして提案した。下院議長が任命したシティズンシップ委員会は、多様な集団のうちにどのように行動的シティズンシップを促進し、発達させるかを検討するために設置された。委員会の報告書は「連合王国における政治共同体の成員資格及びこれに関連する権利と責任をめぐる議論は錯綜した状況にある」とし、人権にかかわる主要な国際憲章や条約がシティズンシップ学習の準拠点となるべきと勧告した。NCCの『カリキュラムガイダンス』は、国際的な人権条約に言及し、人々が同時に重層的な共同体に帰属していることを認めていた。

第3章「シティズンシップの明確化と人権の差異化」は、第2期カリキュラム改革(1997~2000年)を取り上げる。労働党政権は欧州人権条約を国内法化する1998年人権法を成立させ、中等教育段階でシティズンシップを必修化した。教育雇用大臣が設置した「学校におけるシティズンシップと民主主義の教授に関する助言グループ」の報告書は。臣民から市民へのシティズンシップ観の転換を目標として、シティズンシップ教育の三つの要素(社会的・道徳的責任・コミュニティへの参加・政治リテラシー)を設定した。ただし、1998年人権法には言及しなかった。理由は、助言グループの議長バーナード・クリックが、権利としてのシティズンシップと人権とを区別する必要性を強調していたからとする。資格・カリキュラム機構(QCA)が公表した共通カリキュラムでは、複合的なナショナルアイデンティティと重層的な共同体への帰属が示唆されているが、権利としてのシティズンシップと人権との区別は強調されていない。QCAの単元構成例は、生徒が連合王国のすべての人びとの基本的権利を保護する1998年人権法の役割について検討することを提案した。

第4章「連合王国における共生に向けたシティズンシップ」は、中等教育段階の共通カリキュラムを見直した第3期カリキュラム改革(2005~2007年)を取り上げる。労働党政権は国籍の意義を高めるため、2002年国籍・移民及び庇護法により、「国籍取得の儀式と宣誓及び誓約」と「言語及び社会の知識に関する試験制度」を導入した。2005年7月のロンドン地下鉄・バス同時爆破事件後、与党のゴードン・ブラウンはブリティッシュネスとシティズンシップ教育を、歴史を通じたブリテンの共有の価値の学習という点から結びつけた。教育技能省が設置した「多様性とシティズンシップに関するカリキュラム検討グループ」は、近代ブリテン社会文化史がシティズンシップ教育の第4の要素となるべきかどうか検討した。その報告書は、ブリティッシュネスや共有の価値といった用語を用いることに消極的な反応をみせ、第4の要素を「アイデンティティと多様性:連合王国における共生」とするよう勧告した。QCAが改訂した共通カリキュラムは、ブリティッシュネスに言及せず、連合王国という枠組みを重視した。また、ネイションを含む多様なアイデンティティの存在を尊重し、共有の価値について批判的に捉えることを提起したという。

終章は正課の総括と今後の課題を述べている。

本書の特徴・意義と課題

本書の特徴・意義は、まず、第1期カリキュラム改革から第3期カリキュラム改革までという長期間に渡って通時的な分析を行っていることである。特に、先行研究が少ない第1期カリキュラム改革について、シティズンシップ委員会の審議経過を(議事録と配布資料という未刊行資料を用いて)明らかにしている。また、教育政策だけでなく、移民政策についても分析し、シティズンシップ教育政策との接点を浮き彫りにしている。さらには、イギリスという用語を避け、イングランドや連合王国、ブリテンといった用語を厳密に使い分けた緻密な論証を行っている。研究課題はよく整理されており、論旨も明確で示唆に富む。本書は今後のシティズンシップ教育研究の基本文献の一つとなることだろう。

以上のような特徴・意義を高く評価しつつ、以下、本書の課題を指摘したい。

第一に、本書は教育政策の先行研究では「連合王国/ブリテンが国民国家として存在してきたという点が自明視されて」(43頁)きたと批判する。しかし、たとえ連合王国/ブリテンにおけるシティズンシップが(移民政策の先行研究でいう)国民国家型市民権ではなく帝国型市民権の特質をもっているとしても、それは連合王国/ブリテンが国民国家として存在してきたことを否定しない。本書も、ブリテンが国民国家として存在してきたことを前提とする議論を肯定的に引用・紹介している(54, 56, 109, 160頁)。また、連合王国におけるシティズンシップの特質については、権利の内実をより詳細に説明するとともに、義務と価値についても明らかにする必要がある。その際には、ブリテン国民という法的地位に付随する権利・義務・価値だけでなく、教育政策でいう(広い意味での)ブリテン市民の権利・義務・価値を明らかにする必要があるだろう。

第二に、本書は緑書『シティズンシップの特徴』(1994年)と白書『シティズンシップ』(1997年)を政府刊行物等として位置づけるが、これらは民間団体による共同研究の成果であって、政府刊行物でも、政府委託による調査研究でもない。また、この共同研究の帰結として1988年人権法が成立し、権利が明確化されたとしているが、共同研究と1998年人権法との間には直接のつながりはないように見える。1998年人権法は(すでに批准していた)欧州人権条約を国内法化し、人が(欧州人権裁判所でなく)国内の裁判所に訴えることを可能にしたものであって、権利を明確化したとは言いがたい。緑書と白書、1988年人権法は、上述の第一の課題のためにこそ用いられるべきだろう。

第三に、シティズンシップ教育の中核となる価値と連合王国/ブリテン共有の価値、ナショナルアイデンティティの位置づけについてのさらなる検討が必要だろう。1999年共通カリキュラムの全体版も2007年共通カリキュラムの全体版も、「真実、自由、正義、人権、法の支配」といった多数の共有の価値を明記し、健全で正義にかなった民主的社会等に寄与するこうした「永続的な価値を教育は反映すべきである」とする。2007年共通カリキュラム「シティズンシップ」の注釈は、二つの鍵概念「『権利と責任』と『民主主義と正義』のつながりには、民主的諸価値を支え、促進するというわれわれ皆が共有する責任が含まれる」と述べる。したがって、本書の「シティズンシップ教育の共通カリキュラムにおいては……共有の価値を促進することは慎重に避けられた」(177頁)という主張にはさらなる検討が必要である。また拙稿「イギリスにおけるシティズンシップ教育とナショナル・アイデンティティ」(2010年)で論じたように、2007年共通カリキュラムは生徒自身がナショナルアイデンティティの意味を探求し、生徒同士で議論をすることを奨励している。2007年共通カリキュラムは、ナショナルアイデンティティは人々を結びつけるものの一つであり、市民が社会に参画しようとする動機づけを与えるものだ、という立場に立っているのではないだろうか。

最後に、残念ながら、引用文の訳が不適切な箇所が多数見受けられたことを指摘せざるを得ない。一例だけ挙げる。本書は、NCCの『カリキュラムガイダンス』において、「シティズンシップ教育は『民主的な社会において探求し、十分な情報を得た上で意思決定し、そして責任と権利を行使するために必要な知識、スキル、態度を発達させる』ものと定義されている」(82頁)とする。原文は、”Education for citizenship develops the knowledge, skills and attitudes necessary for exploring, making informed decisions about and exercising responsibilities and rights in a democratic society.”である。「民主的な社会における責任と権利について探求し、十分な情報を得た上で意思決定し、それらを行使する」と約することで、民主的な社会における責任と権利こそがこの定義の鍵概念であることが明確になるだろう。

(東京大学 片山勝茂)

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