【書評】関西教育行政学会編『日本の教育制度と教育行政(英語版) Japanese Educational System and its Administration 』

教育行財政研究 第46号 2019年 Book Review

関西教育行政学会編『日本の教育制度と教育行政(英語版) Japanese Educational System and its Administration 』

 

『日本の教育制度と教育行政(英語版)』は、関西教育行政学会が、1999年に世に問うたEducational System and Administration in Japanをもとに作成した改訂版である。この最初の版は、当時非常に重要な役割を演じ、鳥瞰的な視点と流暢な英文で日本の教育の全貌を海外に紹介した。それから20年が経ち、日本社会の変遷に伴って、日本の教育制度も同様に多くの複雑で大きな変化を遂げている。したがって、この改訂では、たんに20年余りの法律の条文や統計データが追加補充されるだけでなく、21世紀に入って以降の教育改革の過程における様々な得失や、社会大衆の教育に対するまったく新たな認識や期待が描かれている。2020年の東京オリンピックが象徴するように、日本の国際化はこれからも必ず進展するだろうから、この改訂版の刊行はまことに時宜を得たものである。

 

本書の第 1 部は 6 つの章からなり、本書全体の半分を占めている。保育所と幼稚園(実際には近年、両者は徐々に統合される状況が見られる)、小学校、中学校、高等学校、大学、特別支援教育、専修学 校から、生涯教育に至るまで、いずれもおよそ十分な紹介がなされている。各段階の教育目標や教育課程の構成について詳細な紹介があり、小学校と中学校の部分ではさらにある学校の一日の時間割も示されているので、読み進めるにつれて、あたかも自分の子どもが保育所から大学まで一歩一歩大きくなっていくのを目の当たりにするような感覚になる。もしかすると、この部分がこのように大きな紙幅を占めているのが適切なのか、疑問に感じる読者がいるかもしれない。私は、本書はまず海外の読者を対象にしているのであるから、文章を通じて、海外の読者に日本の教育に対する感覚的な認識や想像をできるだけ持たせることは、後に続くすべての内容の基礎になると考える。外国人の読者の一人として私は、この部分を読んだとき確かに、自分がまるで保護者であるかのような没入感を持ったのであり、したがって本書のこうした編集方針に大いに賛同する。言ってみれば、こうした没入感が強烈に感じられるとき、すなわち保護者として学校にいる子どもについて様々な心配が生じるようなとき、それは実のところ、本書の中で言及されている、日本の学校になお存在する様々な問題と関係しているのである。就学前教育施設の逼迫や、貧困がもたらす子どもの学習意欲の不足、個別指導の欠如、大学における返還型奨学金によるプレッシャーなど、学校段階ごとにそれぞれ問題がある。さらに言えば、もし自分が低収入の父親なら、わが子が日本の学校体系の中で具体的にどのような困難に直面するのかまで想像することができる。それは実際には、たんに一人二人の保護者による憂慮というわけではなく、その背後には、経済発展が緩慢になり少子化を迎えた日本の社会全体の現実的な状況が映し出されている。研究者の観点からすれば、いくつかの章節の終わりの部分で述べられている種々の問題は、最も心にとめる価値があると思われる。

 

第 1 部の残りの章ではそれぞれ、教育課程、学校経営、教員制度、私立学校の状況が紹介されている。広い意味で言えば、これらの部分は、学校における教授学習活動の最前線から離れ、教育活動の背後にある行政管理の側面に入っている。なぜなら、学習指導要領の設定、教科書の選択(第 2 章)、学校内部の管理(第 3 章)、教員制度の整備(第 4 章)はいずれも、権力関係の調整や人事制度の配置と関係しているからである。この部分の執筆者は、既存の法律や規則を単純に引き写すことは決してせず、学校における様々な人物の行動原理や相互の権力関係を詳細に描写しており、それによって、文字で書かれた規定と比べてはるかに、読者が日本の学校における実際の状況に近づくことができる。例えば、87頁で紹介されている「職員会議」(staff meeting)は、見たところ「議会」のような位置づけにあり、本書に載っている写真は日本のテレビでしばしば放映される国会の様子といくらか似ているようでもあるが、執筆者は読者に対して丁寧に、このほぼすべての教師が参加する「職員会議」は、意思決定を行う権限を持たず、たんに校長が意見を求める際の補助的な組織であるにすぎないことに注意を促している。また、108頁で紹介されている「授業研究」(lesson study)は、教師同士の協力やオープンな関係を重んじており、学界によってかなり前から、日本の教師による独創的な教授改善方式であると認められている。これらの点は、日本の学校文化における独特の特質を具体的に表しており、本書の中で特に貴重で注目すべき箇所である。

 

第 2 部は、重点が完全に教育行政に置かれている。第 7 章と第 8 章は中央教育行政と地方教育行政の運営システムをかなり明快に示しており、また第 9 章で述べられている財政システムは、この両者の関係をかなりの程度制約している。この部分の内容に目を通して、私は大きく反省した。少なくとも、私が比較的把握している、中国の比較教育学分野では、中国人研究者の関心は基本的に日本の文部科学省に集中している。文部科学省が何らかの政策を打ち出したり、何らかの方向性を示したりするたびに、大きな関心を寄せ、数多くの論文が生み出される。多くの研究者は、日本の教育行政システムが法律上「分権」的であることももちろんわかってはいるものの、文部科学省の資料が比較的得やすいからなのか、実際の研究の過程では大部分が文部科学省をめぐるものになってしまい、地方自治体や地方教育委員会の役割をほとんど見過ごしている。このことはかなり残念な結果をもたらすおそれがある。すなわち、そのような「何か言うときには必ず文部科学省に言及する」類の論文は、詳しく書けば書くほど日本における教育の実情から離れてしまうかもしれない。しかも、執筆者が述べるように、「日本の教育行政システムにおいて、中央政府と地方自治体の間にある様々に複雑な関係は、二項対立的な関係を用いて明確に説明することは難しく、結局のところ対等な関係なのか支配の関係なのかを説明するのも難しい」(140頁)。日本の研究者でさえそうした複雑な関係は正確に描写するのが困難だと感じ得るのだから、外国の読者や研究者にとって、こうした困難は間違いなくいっそう大きなものとなるだろう。しかし、「真実を求める」観点からすれば、将来的に少なくとも中国の研究者は、研究の方向性を地方自治体や地方教育委員会の次元にまで下ろすべきであり、そのようにしてこそ、日本における教育の実際の状況をより正確に把握することができるのである。

 

本書の最後の部分(第 3 部)では、まず 3 つの章でそれぞれ義務教育、中等教育、高等教育の改革動向が述べられ、また別に 1 章を設けて国際化の問題を検討し、最後の1章で戦後の教育政策制定過程の変遷がまとめられている。 3 つの教育段階における改革の動向は、実際には各教育段階において現在最も際立った問題と密接に関係しており、したがってこれら 3 つの章は第 1 部の内容と呼応した関係にある。それに対して「国際化」の問題は単独の章として取り上げられており、そのことから、一方ではこれまでの20年間で国際化が日本の教育における突出した論点の 1 つになったことが見て取れ、他方ではそれが、具体的な教育段階に取り込んで論じるのが難しい問題であることも看取される。なぜなら、国際化の問題はどの教育段階の記述でも言及されているからである。特に注目に値するのは、国際交流がますます頻繁になっている今日、日本人の若者の海外留学に対する意欲はかえって減退しており、統計的に見ると意外にも、2012年の留学生数(60,138人)はピークだった2004年(82,945人)の4 分の3にまで減少しているということである。別の面では、数多くの外国人が来日するようになり、それは大学の留学生という身分であったり、親の仕事の関係で日本の小学校、中学校、高等学校に入ったりしている。このような「一進一退」の構造変化は必ず将来の日本社会に対して根源的な影響を与えるはずであり、そのことはまた、この章で「国際理解教育」を取り上げて別に論じる必要があり、しかもこの教育が独立した 1 つの学問領域にまで発展し得ると考えるより深い原因でもある。

 

本書が多くの手によって執筆されており、また教育の様々な側面にまで目を配っていることから、章の配列や前後のつながりでやや難があると感じられるところがあるのは避けられない。例えば、日本では小学校を卒業して中学校に進学したばかりの時期にしばしば精神的、身体的な問題が見られる。第 1 章の中学校制度が紹介されるところで(45頁)、この問題に言及されてはいるが、 1 つの調査結果が引用され、男子生徒の40%と女子生徒の50%がしばしば憂鬱になると説明されているだけである。第11章で、なぜ 9 年一貫の義務教育課程を普及させる必要があるのかが紹介されるときにもこの問題への言及があるが(188頁)、それは一種の不安だと簡単に説明されているにすぎない。私はそれまで、いわゆる「中 1 ギャップ」の問題を理解していなかったため、読んでいる間ずっと戸惑いを感じ、生徒の「憂鬱」や「不安」が結局のところ何によって起こるのかわからなかった。そして、続けて第12章の日本の教育改革まで読み進めたとき(192頁)、ようやくこの章の執筆者がこの問題の原因をとても明快に説明しているのを見つけた。すなわち、中学校に入ると生徒は多くの規則を押し付けられ、しかもそれは往々にしてかなり厳格であり、また生徒自身も思春期で心身の急激な変化を迎えていて、さらに高校入試のプレッシャーもある。いじめが中学校から頻発することも、多くの生徒にとっては不安を増すことにつながるという。ここまで読んで、私はようやくこの問題についてかなりはっきりと理解することができた。しかし、 3 つの章は各執筆者がそれぞれ作成しており、細やかなすり合わせがなされていないことは明らかである。第12章の内容が最初に出てくるようにすれば、私のような読者が戸惑うことは少なくなるであろう。

 

かつて日本で学んだ留学生としては、本書を読むことで、留学時のたくさんの思い出が呼び起こされるとともに、初めて一連の学校制度によって体系的にそれらの思い出を整理することができた。広島の公民館で指導してもらった日本語の先生まで思い出したのだが、留学していた 4 年間、それは「社会教育」の一部とみなすべきだということにまったく意識が及ばなかった。

 

教育研究に携わる外国人研究者としては、本書を読むことで、自ずと比較教育学的な連想が多くもたらされた。例えば、日本の教育行政制度の「分権」的な構造は米国人が戦後定めたのだが、米国では「どの子も置き去りにしない」法以降、連邦政府による教育への介入が明らかに強まる趨勢にあり、このことと日本の動向との間には共通点があるのだろうか。また、日本の「授業研究」はかなりの程度米国の教師の教授活動に影響を与えていて、断言はできないものの、それが中国に伝わればすぐに根付き、大きな影響を与えることは確かに言える。そこには、学校組織モデルや文化背景の原因がいくらかあるのだろうか。これらはいずれも、本書を読むときにどうしても思い至る問題である。

 

私は、本書の意義がたんに「紹介」、すなわち日本の教育体系を海外に紹介することにとどまるとはまったく思わない。実際、日本の多くの研究者が英語を用いてこの書物を作り上げているのだが、そうした行為そのものがある種の比較対照研究の性質を帯びている。なぜなら、執筆者は英語の中の適切な語彙と概念を借用して日本の教育の特質を表現しなければならず、そのためには自然と、まず欧米の教育の伝統について精確な理解が必要となるからである。欧米の教育は実際、潜在的な鏡であり、本書の各章節に投影されている。私は、ますます多くの研究者が、本書を礎石として、異なる文化背景を持つ教育体系の中で相違点や共通点を探し求め、それによって新たな思想の火花を散らすと信じている。そのようにしてこそ、本書はいっそう大きな価値を煌めかせることができるだろう。

 

(北京師範大学 劉 幸 訳:南部広孝)

[東信堂 A5判 248頁 定価2700円]

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