【書評】J・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋―ファインバーグ論文選』

【書評】J・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋―ファインバーグ論文選』

法律時報 第91巻 第9号 2019年8月

 

亀本洋(明治大学教授)より

 

1 ファインバーグ

原著者ジョエル・ファインバーグ(1926~2004)は、ジョン・ロールズ(1921~2002)より5年遅く、ロナルド・ドゥオーキン(1931~2013)より5年早く生まれた。この3人は、ほぼ同時期に活躍した超一流の政治哲学者——法哲学者や倫理学者との境界は曖昧だが——だと言ってよい。ファインバーグの仕事は、いずれかというと玄人的で地味であり、市販の邦訳が今までなかったこともあってか、日本では、ロールズやドゥオーキンに比べれば知名度は低い。だが、英語圏の哲学者、法哲学者、刑法学者でファインバーグの名前を知らない人はいない。
ことに、他者に危害を与える場合にのみ国家(ないし社会)権力は個人の自由に介人できるとする J.S.ミルの危害原理だけでは対処できない刑法および処罰の限界・根拠・機能にかかわる難しい問題について(その例として、本書第2章「自由の利益をはかりにかける」1978年、第3章「法的パターナリズム」1971年、第4章「『危害なき不道徳行為』と感情を害する生活妨害行為」1973年参照)、アメリカ社会が育んできた良質な常識を基礎に、概念分析の方法によって何が根本的な問題かを鋭く切り開くファインバーグの手腕には定評がある。彼は、いわば「刑法の哲学」の分野において、1960年代初めから40年以上にわたって第一人者であった。
たとえば、本書の第17章「罰の表出的機能」(1965年)で展開される応報刑論の見方は、ユニークで教えられるところが多い。ファインバーグによれば、応報刑論の要点は、犯罪と刑罰の釣り合いではなく、犯罪とそれに対応する社会的非難の表出との釣り合いにある。

また、第16章「法と道徳における問題含みの責任」(1962年)においては、法的責任が偶然に左右されるのと同様に、(悪い結果の発生とは無関係な)純枠に道徳的な責任——悪い意図を形成した責任——もまた偶然に左右されることが鋭くも指摘されている。たとえば、悪い意図をもって行為したが、たまたま結果が発生しなかったため法的責任を問われないことがあるのと同様に、たとえば、同じ状況にある同じ人が、同じ相手がたまたま怒らなかったために、悪い意図を形成せずにすんだため道徳的責任を問われないということがある。
刑法の哲学といっても、刑法が本職のドイツに多い法哲学者と異なり、ファインバーグの本属はあくまで哲学である。彼の本領は、刑法その他の法にかかわる諸問題を、それと独立かつ並列して存在するものとしての道徳の観点から探求するところにある。

ロースクールの教授でもあったファインバーグは、哲学者のなかでは異例なほど法学、法律、判例に造詣が深い。それだけに、法と道徳の比較を通じて提出される彼の道徳的考察に、哲学者ではない法哲学者や法学者が、そのような見方もあったのかと啓発されることも一再ではない。

2 邦訳の意義

本書は、1970年、1980年、1992年にプリンストン大学出版からそれぞれ公刊された三冊の論文集から、編者・監訳者の2人がさらに17本の論文を独自に厳選し、総勢16人が分担・協力して完成させた大業である。
ありがたいことに、本書には、第5章「正義と人のデザート(報いに値すること)」(1963年)、第8章「権利の本質と価値」(1970年)、第3章「法的パターナリズム」(1971年)、第6章「無比較的正義」(1974年)、第12章「動物の権利とまだ生まれていない世代の権利」(1974年)など、それぞれの分野で今や「古典」となった論文のはとんどが収録されている。それらを邦訳したことの日本の学界への貢献はまことに大きい。訳文も、同種の翻訳書のなかでは最上の部類に属する。
本来、学問の専門分化に抗うはずの哲学の分野においても、著者の奇妙な考え方やジャーゴンを知らないと素人には手に負えない文献が近時加速度的に増加している。幸いにして、ファインバーグの論文には、そのような無用な難解さはない。あくまで普通の人が知っている言葉、常識、事例を手がかりに、何が問題かを読者に悟らせる一方で、通念や学者の常識が必ずしも正しくない点について問題設定の改善の方向を探る。これが、言葉だけ見ると難しげな「概念分析」と呼ばれる彼の哲学的方法の真相である。
ただし、そこで参照される言葉や常識があくまで彼の生きた国、アメリカ合衆国のものだという制約はある。日本の読者は、アメリカではそう考えるのかとか、日本でもそこは同じだとか違うといった感想を抱きつつ読むことで、幸いにして、英語圏の読者よりも多くを学ぶことができる。
所収論文は、編者によってテーマ別に三部構成に再編されている。だが、各論文はもともと別個に発表されたものであるから、読者は興味に応じて、どの論文から読み始めてもよい。とはいえ、1960年代ないし70年代の論文と、80年代ないし90年代の論文とを比べれば、後にその分野の必読文献となったという点では前者が、法哲学者ないし倫理学者以外の一般読者にとっての読みやすさという点では後者が概して優っている。玄人的読者には、発表年順に、あるいは発表年を十分に意識して所収論文を読むことをお勧めする。そうすれば、ファインバーグの考えの微妙な変化と一貫性を味わうことができるはずである。

3 死ぬ権利

一般読者にとって一番わかりやすいのは、安楽死問題を扱った第15章「『死ぬ権利』への見込みの薄いアプローチ」 (1991年)であろう。
30年間エックス線の利用法について研究してきて、おそらくその結果、皮膚がんに体を蝕まれたマシュー・ドネリーという人がいた。「彼は、顎、上唇、鼻、左手などの一部を失った。腫瘍が彼の右腕から切除され、二本の指が彼の右手から切断された。彼は、盲目で、ゆっくりと衰弱中で、身体と魂との苦しみの中にいる、という状態のままにされた。……彼の余命は約一年間であると、医師たちは推定した」(446頁)。「ドネリー氏は弟に自分を銃で撃ってくれるよう懇願し、弟は撃った」(471頁)。
この場合、ドネリーに、「殺してもらう」道徳的権利があることは認めつつも、それを法的権利に変えることに断固反対する道徳哲学者がいる。殺人罪の法はそのままにして、ドネリーの弟を、検察官や裁判官の共感を得て、起訴猶予にするか、執行猶予にするかしたほうがよい、というのである。
その理由は、自発的安楽死を合法化すると、 誤診や家族の意向等によりそれが濫用される危険がある、ということにある。生かすべき人を死なせるという誤りと、死なせるべき人を生かすという誤りとを比べて、安全なほうに誤るほうがよい、つまり、全員一律に生かすほうがよい、という一見正しそうな理屈である。これによると、ドネリーは、あと約1年、苦しみ抜いてやっと死ねることになる。

このような場合に、誤って殺される集団の生命と、誤って生かされる集団の苦しみとを抽象的に比較してルールを作るという発想がそもそも間違っている、というのがファインバーグの見解である。問題になっているのは、ドネリーの個別具体的な状況であり、誤って殺される可能性のある集団の一員としてのドネリーではない。ドネリーが死ぬほど苦しんでいることはだれにでもわかるのに、的外れな抽象的思考をして何になるのか。
これほど劇的な状況ではないかもしれないが、日本の裁判官も、自分が担当する事件における個別具体的な正義と、実定法と最高裁判例に従うという別種の正義との対立相克に日々悩んでいるのではなかろうか。
ところで、ファインバーグは、ドネリーの「安楽死を助けることは許される」という言い方よりも、もっと積極的にドネリーには「殺してもらう権利」 があり、周囲の者には彼を「殺す義務がある」という言い方のほうを好む。ファインバーグからすれば、これは単なる好みの問題ではなく、道徳は、義務や許容の観点からではなく、権利者のもつ「権利」の観点から捉えなければならないのである。

4 権利の概念

この点をすでに明らかにしているのが第 7 章「義務、権利、そして請求権」(1966年)と第 8章「権利の本質と価値」 (1970年)である(亀本洋「Claimについて」法律論叢90巻 2 ・3号 (2017年)165~187頁参照)。1992年に発表された「道徳的権利の擁護」三部作(第9章~第11章所収)では、その後に提出された諸批判、とりわけ道徳的権利の不要論および有害論に反論しつつ、道徳的権利の意義の闡明に努めている。前提とされている背景的知識を補いつつ、まずは第 7 章および第 8 章から紹介しよう。
法哲学、道徳哲学を問わず権利概念論の分野では、アメリカの法学者ホーフェルド(1879 ~1918)が提唱した法律関係論に含まれる権利概念の分類が、ファインバーグが上記論文を書いた当時から共通の出発点とされていた。ホーフェルドにおいては、「XがYに対して、Yがpをすることへの権利をもっている」という文と「YはXに対して、pをする義務を負っている」(XとYは互いに異なる個別具体的な人または法人格、pは行為または不行為)という文とは、同一の権利・義務関係をそれぞれ権利者、義務者の側から述べるものとして同義である。だから、この局面では「権利」という言葉はなしですますことができる。
さらに、権利者Xは義務者Yに対して、pをする義務を果たすよう「請求する」 (claim) ことが普通はできるが、その請求する権能 (power) ——本書では「権限」と訳されている——は、権利・義務関係における「権利」とは異なるものとして把握され、権利と請求権能との必然的な結びつきはない、とされている。
このようなホーフェルドの見解と対照的に、ファインバーグの道徳哲学における「権利」の概念は、ホーフェルドのいう「権利」と「請求権能」を合体させた上で、法哲学者H.L.A.ハート(1907~1992)の見解を取り入れて、その請求権能の行使が権利者の「自由」に任されているという点を強調するものである。権利者がもっている請求(クレイム)するか否かの自由と、法制度に依存して権利者がたまたまもっている相手方の義務を免除する権能とが、法律学的にはまったく違う種類の(広義の)「権利」であるにもかかわらず、ともに相手方の行為をコントロールするものとして同列に論じられている(第9章の245頁も参照)点もハートと同じである(H.L.A.ハート(小林公・森村進訳)『権利・功利・自由』(木鐸社、1987年)第4章参照)。
法律学的にいえば、請求するかしないかと、請求するか免除するかとは異なる問題であるから、理解に苦しむところがある。にもかかわらず、ファインバーグには、どちらも権利者のもつ「自由」に属するということで両者を一括することに抵抗がないようである。彼はさらにすすんで、法的権利について——ここでは道徳的権利について論じているのではない点に注意されたい——権利者が有するこの「自由」こそが、義務者が権利者に追う義務の根拠となる、とまで主張する(223頁)。
法学者には理解しにくい主張があるかもしれない。たとえば、契約から生じる債権債務関係についていえば、それは両当事者が「自由に」契約したからこそ生じるとか、土地所有者がもつ妨害排除請求権は、所有者の土地利用の「自由」を守るためにこそある、といったことがファインバーグは言いたいのであろう。
おそらく法学者の興味を引かないこのような主張に比べると、請求権能(行使の自由)と合体した「権利」の存在する社会と、そのような権利の存在しない社会とを比較するファインバーグの着想には目をみはるものがある。無権利社会においても、現実のアメリカ社会と同様、所有権、契約、組合、婚姻といった制度(と似たようなもの)は存在する。ただし、そこでは権利者、すなわち義務の履行を請求することができる者は国王のみだとされている。この点がポイントである。
たとえば、YがXから金を借り、返済の約束の期日が来ても、Yに対して、Xに借金を返せとクレイムできるのは国王だけだ、ということである。義務不履行の場合、国王の気が向いて、たまたま救済に乗り出してくれないかぎり、義務の履行は、義務者の好意に依存する。義務の履行によって利益を得る者(アメリカ社会で権利者とされる者)は、権利をもたないのであるから、義務の履行も、救済も自分の権利としてだれにも請求することができない。そのような社会では、他人の人格を尊重とか、自尊心すなわち自分の人格の尊重といった自由主義社会に不可欠な徳は衰退するであろう(第10章では「道徳的貧困化」と呼ばれている)、というのがファインバーグの見立てである。
誇張していえば、自分の正当な利益が侵されたのに、その賠償を自分の権利として加害者に請求しない人、あるいは、自分の権利に対応する義務を相手方が履行してくれただけなのにやたらと感謝する人は、奴隷的態度を身につけた人であって(275~276頁も参照)、そのような人々からなる社会は健全な社会ではない、ということである。日本社会の住人にとっては、耳が痛い話であるかもしれない。
それはともかく、法的な権利だけでなく道徳的な権利を含めて、ファインバーグの推奨する権利概念の中核にクレイムするという活動がある、という点は銘記されたい。

5 道徳的権利の意義

第9章「道徳的権利の擁護:その存在のみについて」では、道徳的権利が、法的権利や慣習的道徳に属する権利と異なり、制度的基盤と独立に存在する点が強調される。ことに、道徳的権利が同時に法的権利であることも珍しくはないが、道徳的権利のクレイムは、「それが法的権利になるべきだ」というクレイムではない、というファインバーグの見解は注目に値する。
たとえば「専制に抗して革命を起こす道徳的権利」(252頁)が制度化されることはありえないが、それでも、そのような道徳的権利は存在すると言うことができる。あるいはまた、「子供から礼儀正しく話しかけられる親の〔道徳的〕権利」(253頁)は法的権利となるべきではない、という言明は完全に有意味である。道徳的権利は、制度的基盤なしに、法的権利と独立して存在するのである。
第10章「道徳的権利の擁護:その社会的重要性」では、ファインバーグの道徳的権利論を、「自尊や人間の尊厳は、他者に対して耳障りで不平に満ちた敵対的主張をする立場にあることに依存しており、私の達成や自由や自己実現は、あなたの達成や自由や自己実現に限界を設ける私の剛腕的で自己主張的な能力に依存する」(第10章注20で引用されているジェレミー・ウォルドロンの言葉)という見解だとする曲解に対して静かに反論している。
ファインバーグはそもそも、そのような見解をどこにも述べていない。権利概念を利己主義や商業主義と直結させて理解した上で権利を嫌う、その他の共同体主義者やフェミニストの一部からの似たような批判も含めて、取り上げるに値しない。現今の英語圏の政治哲学における論争のほとんどは、相手方の主張をできるだけ悪くとって攻撃するという不毛な形態をとっている。ファインバーグは、そのような下品な論争戦術をとらない点で見習うべき学者である。

6 価値懐疑主義批判

第11章「道徳的権利の擁護:その憲法における重要性」は、米国の独立宣言に含まれる「政府が組織されるのは」「生命、自由、幸福追求への」「不可譲の権利」を「確保するため」である、という文言の確認から始まる。それらの権利は18世紀には「自然権」と呼ばれた。ファインバーグが「道徳的権利」と呼ぶものも、それと同じものである(「自然権」には別の意味もあるので、ファインバーグはその語を原則として使わないが)。
日本でも有名な1965年の「グリズウォルド対コネティカット州事件」では、連邦最高裁の多数派は、そのような道徳的権利として、「プライバシーの権利」、もっと正確にいえば、その権利を否定する法律を制定する権能を州の政府(議会を含む)に対して否認する(憲法上の)「権利」を米国市民に対して認めた。
ちなみに、そのような「権利」——「憲法上の自由権」に分類されるもののすべてが含まれる——を、ファインバーグやハートを含め、ほとんどの道徳哲学者および法哲学者はホーフェルドの権利概念の分類を使って「免除権」immunityと呼んでいる。
グリズウォルド事件の争点は、「『どんな人に対しても』避妊具の使用を禁止し、その使用を助言するどんな医師もあたかも正犯者であるかのように起訴され処罰されることを許しているコネティカット州法の有効性であった。この州法を憲法上無効だと宣言した多数派の裁判官たちにとって、婚姻関係にある男女が避妊具を使用する権利は、考えられる中でももっとも明白な道徳的権利の例である。つまり人々のあいだに政府が組織されているのは、この種の権利を確保するためなのである」(308頁)。
避妊具の使用は禁止せず、その製造と販売を禁止するだけでも、避妊具を使用する道徳的権利は侵害されるから、その種の権利は「プライバシーの権利」というよりも、「自律への権利」と呼んだほうがよい、とファインバーグは述べている。
興味深いのは、ここで展開される原意主義者たちに対する批判である。名前が挙げられているのは、日本の憲法学者の間でも有名なジョン・イリィ〔本書では「エリィ」〕(佐藤幸治・松井茂記訳『民主主義と司法審査』(成文堂、1990年)参照)、ロバート・ボーク、ウィリアム・レーンキスト、エドウィン・ミースである。
原意主義は、「憲法の教義的内容は憲法が採択された時に完全に決定されており、憲法の教義はテクストあるいは〔それの〕『原意』についての価値自由で事実的な研究によって同定することができる、と仮定している」(311頁)。これは原意主義に好意的でない人(法哲学者デヴィッド・ライオンズ)による好意的すぎる定義であるから、グリズウォルド事件を題材にして、しかも、ファインバーグの見解にそって、原意主義の解釈方法について敷衍しておこう。
原意主義によれば、まず、避妊具の使用に関する文言が憲法典にないか探す。ない場合、規制されない性関係や生殖選択に関する抽象的な権利にかかわる文言がないか探す。それもない場合、そのような抽象的権利を定立しようとする制定者の意図をうかがわせる文言がないか探す。それもない場合、州議会は性的自律を制限するどのような法律を制定しても憲法に違反しないことになる。この場合、裁判官は、自分の価値選好を州議会の価値選好に優先させてはならない。
このようなことを合衆国憲法の起草者たちが意図していなかったことは事実問題として明らかである。だから、原意主義とは、その名に反し、事実を調査せず、原意を無視する解釈方法である。その狙いは、自分たちの気に入らないウォーレン・コートないしバーガー・コート時代のリベラルな先例を廃棄することにある。このようなことは、今では、アメリカのまともな法学者の間では常識になっている。
道徳哲学者ファインバーグの批判は、もっと根本的なものである。彼はボークを名指しして、ボークが価値判断を個人の選好すなわち好みの問題とみなしていることを批判している。その際、どのような価値判断も「それをする人の意見である」という当然の事実から、「だからそれは主観的な好みにすぎない」へと移行させるレトリックも激しく批判している。ファインバーグがメタ倫理学上の認知主義、すなわち道徳的判断について審議が問えるという立場をとっていることは、これまでの叙述から明らかで、改めて言う必要もないであろう。
ボークは、リベラリズムの原理とされる危害原理は、「共同体あるいはその多数派が『危害と見なす権利をもつ』事柄の範囲を援護不可能な程度にまで制限する」(319頁)、したがって「彼等が『道徳的危害』だと考えるものを防止することは許されなくなる」(320頁)という不満を述べている。
ファインバーグが正しく説明しているとおり、リベラリズムは、自分が道徳的真理を主張していると心から信じている人どうしが、何が道徳的に正しい生き方かをめぐって対立するとき、特段の危害が生じないかぎり、政府は各人の生き方にできるだけ不介入、寛容の政策をとるべきだという政治思想である。ボークは、これを「倫理的相対主義の実践」(320頁)といって批判するのである。道徳的真理を認めず、かつリーガル・モラリズムを支持する人が、リベラリズムを「倫理的相対主義」と誤解して批判することは支離滅裂というべきか。

7 利益原理

第12章「動物の権利とまだ生まれていない世代の権利」(1974年)の題名に含まれている権利をファインバーグは両方とも肯定している。これを正当化するためには、クレイムする活動に重点を置く権利概念では対処できない。クレイムする主体が存在しないからである。だから、ここではファインバーグは、権利概念に含まれる「だれそれ(高等動物も含む)のため」という利益の要素を強調して、権利概念の修正・発展を図る。
そのモデルは、第10章(288頁)で扱われている生命保険契約である。Bが保険会社Aとの間で保険料の支払いと引き換えに、死亡時にCに保険金を支払うという契約を結んだとする。Bの死亡時にCに保険金を支払う義務をAはBに対して負っているが、契約関係のないCに対しては負っていない。したがって、CはAに対して、Bの死亡時に保険金の支払いを請求できない、という法制度もありうる。この場合に、法制度のいかんにかかわりなく、CはAに対して保険金支払い請求権をもっていると考える人は、そのような道徳的権利をCに認めているということになる。その場合の主たる正当化理由は、AB間の(道徳的な)契約がCの利益のためであったのだから、Cが(道徳的)権利をもって当然だというものであろう。
自分でクレイムできない動物(欲望や能動的生をもつ高等動物に限られる)の場合、法人の権利請求を代表が行うのと同様に、権利の請求は代理人または代表者が行えばよい。胎児や将来世代の人間の権利についても、細かい点で対処法が異なるが、基本的に利益原理の応用によって対処される。
第13章で扱われる「開かれた未来に対する子供の権利」(1980年)では、子供の利益のなかに、将来の漸進的自律に備えて未来の選択肢を開かれたままにしておかれる利益が最も重要なものとして算入される。

8 むすび

以上、本書の大部分を占める道徳的権利にかかわる論文を中心に、適宜コメントをはさみつつ紹介を試みた。重要であるにもかかわらず、紹介を割愛した論文が多い。ことに、第5章「正義と人のデザート」(1963年)には、本書所収のその後のいくつかの論文の種となったアイデアが数多く含まれており(亀本洋『ロールズとデザート』(成文堂、2015年)第3章参照)、是非読んでいただきたい。

 

(明治大学 亀本洋)

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