【書評】江原武一著『教育と比較の眼』

【書評】江原武一著『教育と比較の眼』

(四六・252頁・¥2600+税)

日本比較教育学会 比較教育学研究第58号 2019年

 

 

望田研吾(九州大学・名誉)より

 

 本書の目的は著者によると「現在世界各国で行われている教育改革の動向を国際比較の観点から集約して整理するとともに、日本や諸外国の具体的な対応や取組について批判的に考察し、それらの知見を手がかりにして日本の教育改革の望ましいあり方を探ること」である。すなわち、本書は外国の教育との比較からわが国の教育によって望ましい教訓、示唆を得ようとするものであり、比較教育学の論考としてはきわめてオーソドックスなものである。それは本書が「日本の教育改革のあり方や改革の実際に関心がある教育関係者や学生、保護者、それから卒業生を受け入れる社会の多くの人びとにとって、少しでもお役に立てば幸いである。」とあとがきに記されているように、一般読者を対象としていることによるものである。

 本書は以下の5章で構成されている。本書の分析視点を述べている「第1章教育の国際的視点」、日本の教育改革の概要を記している「第2章日本の教育改革のゆくえ」、価値教育や市民性教育についてふれている「第3章公教育と価値教育」、近年の世界の教育改革における最大課題である学力問題を取り扱った「第4章国際学力調査のインパクト」、1980年代以降わが国の教育で重要な課題となってきた教育の国際化の問題に関わる「第5章教育の国際化の課題」、そして、生涯学習社会への動きを論じた「第6章学校と生涯学習体系の構築」である。

 では、このように多面的に教育改革を分析する場合の、本書のタイトルにともなっている比較の「眼」すなわち分析視点はどのようなものであろうか。著者は、世界共通の教育の普遍的な使命を「基本的人権の尊重や公正で平等な学習機会の拡充、人類の知的遺産の継承、公平無私な真理の探究などといった社会にとって不可欠な教育活動」の遂行であるとし、わが国のそして世界の教育改革がこの社会的使命の達成にとってどの程度有効であったのかを吟味している。そうした前提に立って、著者が世界の教育改革を分析する場合のキーワードは「小さな政府」である。いうまでもなく「小さな政府」は新自由主義的社会改革における最重要概念の一つであり、近年の世界の教育改革における主導的理念となってきたものである。著者は、対象となる読者を意識してか、この「小さな政府」について「小さな政府(スモール・ガバメント)」とは、政府の権限を縮小し、国民のやる気や競争心、進取の気性を活用することが国民国家の発展にとって役に立つという立場から、国民の自助努力や市場競争の原理を重視する新保守主義(新自由主義)の考え方にもとづいた政府である。」というわかりやすい定義を提供している。ちなみに、この例にみられるように、本書では教育改革をめぐるいくつかの重要なキーワードについて丁寧な定義や解説がなされており、一般読者や初学者にとって親切なものとなっている。

 さて、著者はこうした「小さな政府」のコンセプトによる教育改革に対して「歯切れはよくても実現する目処がつかない教育改革よりも、漸次的な教育改革の着実な推進を支持する私の立場からみれば、それらの教育改革の成果を全面的に否定するつもりはない」としながらも、「日本を含めた世界的同時進行の教育改革によって、日本の教育は時代や社会の変化に適切に対応するとともに、教育の本質に適ったものに改善されてきたのかというと大いに疑問である」として、やや抑制されたものながら「小さな政府」的教育改革に対して批判的立場をとっている。そこで、著者が何故「大いに疑問」とする立場をとるようになったかについて、どのように本書で展開しているか、すなわち「小さな政府」を標榜する新自由主義的教育改革のもたらす諸問題について、著者がどのように把握しているかが関心の的となるであろう。本書において著者は、幼児教育から高等教育に至る学校制度に関わる諸問題に加えて、既存の学校教育のあり方の見直しを迫っている「校内暴力やいじめ」や「価値教育」の問題、国際的な潮流のなかで深刻な教育上の問題として認識され、各国の教育政策でも対策を講じることが必要になってきた「生涯学習体系構築」「国際学力調査」「ジェンダー」に関わる諸問題、さらに「社会のグローバル化や国際化に対応した教育課題」を取り上げ、こうしたわが国の教育全般にわたる幅広い諸問題についてその内実をわかりやすく解説している。

 それに続けて著者は、こうした課題にどのように対応すべきかについていくつかの方向性を提示している。「比較の眼」をタイトルに掲げる本書であることから、そうした対応策について、まずその眼から見てどのような提言をしているかが興味のあるところである。例えばいじめ問題については「長期的にみると、生徒全体を対象にしていじめを未然に抑止する措置を講じていく方が有効かも知れない。また海外の実践で効果的だと評価された対策も、そのまま日本のケースに適用するのではなく、あくまでも参考にしながら、いじめをとりまく教育の実情や社会の状況などをふまえた対応策を整備していく必要がある。」と指摘し、また価値教育の中の重要要素である市民性教育については「世界の市民性教育は共通の要素や課題を数多く含んていると同時に、他方で国や社会、地域のスタンスや事情、歴史と伝統、社会的・文化的背景などによって異なるので、日本社会にふさわしいバランスのとれた市民性教育を実現するためには、その基本的構想(グランドデザイン)市民性の資質などを明確に設定して、具体的な教育実践をさまざまな場面で試行する必要がある。」といったかたちで、海外の事例を参考にしながらわが国にとって適した対応策を考えるべきであるというあくまでオーソドックスな立場に徹している。ただ、わが国を含めた世界の教育改革における最重要課題である学力向上策に関わる国際学力調査については、比較教育学的観点から注目すべき視点として「国際学力調査で測定される知識や技能などを、各国の学校教育における教育課程の教育内容としてくみこむ際には、生徒の読み書き能力の背景となり、特定の文化に参加するために求められる各国に固有の知識や技能などと整合するように再構築する必要があるが、それは日本も例外ではない。」との指摘が見られる。経済発展を第一に掲げる西欧中心の国際組織であるOECDが実施するPISAに対しては、各国の国民文化に基礎を置く教育を重視する立場からは、それがOECDによる一目瞭然の国際ランキングという「比較」を媒介とする世界教育の「ガバナンス」の道具となっているといった批判も出されているが、著者の国際学力調査への視点はこれほどラディカルなものではないものの、PISA型学力の過度の偏重という問題点に目を開くものでもある。

 このように本書を通じて、著者はわが国の教育における諸課題に関して「小さな政府」的教育改革への抑制的批判という立場から提言を行っている。それらに共通あるキーワードは、「日本社会にふさわしいバランスのとれた価値教育の実現」「日本社会にふさわしいバランスのとれた市民教育の実現」さらに「日本社会にふさわしい明確な将来構想(グランドデザイン)にもとづいた教育政策の立案」などの提言に見られる「日本社会にふさわしい」である。現在の「小さな政府」的教育改革は、「日本社会にとってふさわしい」ものではないというのが著者の立場であるが、それらの提言がより強い説得力を持つためには、「小さな政府」的改革のもたらす現実の学校教育における諸問題に対する一層鋭いアプローチが望まれるところであった。また「小さな政府」というイデオロギー上のコンセプトを本書の論述の軸とするならば、教育改革においては、どの国においてもその社会にとって何が「ふさわしい」のかが決定される場合には、イデオロギーのコンフリクトが必ず生じるものであり、著者が言う「日本社会にふさわしい」改革の実現にとってどのような現実的問題が横たわるのかについての言及も、教育改革における政治的次元への視点を提供するのに役だったものと思われる。

 ともあれ、全体としてみれば本書は世界各国と日本の教育改革を丁寧に、また国際比較の観点からわかりやすく「集約」し「整理」するという著者の意図通り、教師養成課程に学ぶ学生や現場の教師を含めた一般読者にとって、その幅広さとわかりやすさとによって近年のわが国における教育改革の動きと世界との「比較の眼」において簡潔に把握するのに大いに有用であると思われる。

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