【書評】関 礼子編著『被災と避難の社会学』

関 礼子編著『被災と避難の社会学』

(A5・200頁・¥2300+税)

地域社会学会年報第31集 2019年5月

今井 照より

 

編著者によるあとがきの中に「この非常時に社会学者が役にたたないとしたら社会学は無益だ」という言葉をかけられたことが記されている。おそらく本書はそれに対する回答の一つになるのだろう。

本書は8章構成になっている。第2章に陸前高田市を中心とする三陸海岸沿岸の事例、第3章に石巻市石上町の事例が取り上げられているが、過半は東京電力福島第一原子力発電所過酷事故に伴う被災と避難をテーマとしている。具体的な事例としては第5章で飯舘村民の集団申立、第6章には新潟県への原発災害避難者が抱えている課題が詳述される。

これらの間を縫うように、第1章、第4章、第7章で編著者による課題整理と理論的な方向付けが行われる。第1章では、復興をめぐる「制度の時間」と、被災者の「生活の時間」がかみ合っていないために、被災者の生活回復が難しくなっていることが説かれる。第4章では、原発災害避難をめぐるさまざまな証言を解析しながら、失敗に学ばない社会構造の再生産について語られる。第7章では、原発避難者訴訟における争点の一つである「故郷喪失論」について考察を深めている。さらに終章の第8章では強制避難を経験し、被災に関係する住民運動を担ってきた経験者による所感が展開される。

全体を通読すると、東日本大震災と原発過酷事故に伴う「被災と避難の社会学」をまさに立体的に把握することができる。この「非常時」に関する社会学の到達点を示す好著である。

2011年3月、私は福島大学に勤務していた。混乱と混沌の渦中にあって、私は研究者というよりは広義の被災者の一人として、いったい今、何が起きているのかを知りたかった。発災直後から、それまでの災害研究の文献や資料がネットに無償公開され、むさぼるようにそれらを読んだ。研究成果としていちばん参考になったのは弘文堂から出ている「シリーズ災害と社会」で、多くが社会学者によって書かれていた。なにせそこに書かれていることが目の前で再現され、これから何が起こるかもある程度予想できた。そういう意味でも、私にとって社会学は「役」にたった。

学問分野で言うと地方自治や公共政策、さらに大括りにすると政治学や行政学に属していた私は、研究者としては途方に暮れるしかなかった。政治学や行政学での研究成果としては、現在でも原子力行政とか官邸と東電との間の混乱などが主題になることが多く、目の前にある被災地や目の前にいる避難者との間には距離があった。しばしば被災者やその支援者から私に突き付けられる課題は、「なぜ行政は私たちの味方にならないのか」(日野行介『除染と国家――21世紀最悪の公共事業』(集英社新書)を読むと改めて実感させられる)、ということだが、それに対して、そんなことは「制度の時間」を体現する行政学では「あたりまえ」という身も蓋もない研究「成果」を披歴することになり、火に油を注いでしまう結果になる。

一方で訴訟を媒介として被災者を組織化しようとする動きも早かった。第7章でも触れられているが、ここには法学が関係する。もちろん訴訟一般を否定するわけではないし、已むに已まれぬ手段としてこれ以上のものは見当たらないが、訴訟の言葉になった途端に被災者が疎外されてしまう何かがある。例えば裁判では「予見可能性」が争われるが、予見可能だったにもかかわらず対応しなかったから悪い、ということでは被災者一般の心情とずれていく。そもそも危険なものをそこに置いたこと自体の罪を問おうとすれば、むしろ予見不可能であること自体が罪に当たるといえるのではないか。しかし既存の法学ではそこを掬えない。訴訟や集団申立は重要な手段ではあるが、そもそも「カネ」をめぐる争いへ疎外されるから、勝っても負けても被災者一般の心情は救われない。

福島の抱える問題が「語りにくさ」にあるとしばしば指摘される。私もこのこと自体には同意する。ただし、この「語りにくさ」は政治的、科学的に学習と理解を深めれば解消するというわけではない。二律背反がさまざまに組み合わさり、むしろ学べば学ぶほど一言では括れなくなってしまうところがある。一般的に学問は普遍志向なので、「語りにくさ」を整理しようとしてしまうのだが、とりわけ原発被災については逆効果になりかねない。おそらく社会学だけがそこから免れる可能性をもつ。

本書では、混在する二律背反が構成上も生かされている。だから立体的な把握が可能になる。たとえば安全と危険、帰還と移住とは反対語であるが、ここではループする。行政や法の制度がこれらのループに対応できていないのは間違いない。そこまでは指摘できる。だが学問も同じである。だからこそ行政や法の制度もそうなっている。可能な限り「裁量」を排斥することが市民に対する公平と公正をもたらすとこれまで考えられてきたし、そのこと自体は間違いではない。そこで「生活の時間」と「制度の時間」をかみ合わせるためには、公平で公正な「裁量」という二律背反を成立させるしかない。

そのためには、ある一定の方向に開いているのであれば、一律的・画一的な基準の公平や公正から逸脱した「裁量」であっても許容するという新しい制度概念を創出する必要がある。被災者による選択を尊重し、それに応じた支援をするという「子ども被災者支援法」の理念はまさにその萌芽であった。しかしその具体的な設計を政治が官僚機構に委ねた時点で、その芽はつまれてしまった。実態はともかくとして、理念的に行政では一律的・画一的の公平や公正からの逸脱を許容しないからである。これが行政学の「常識」なので、残念ながら行政学は現実に対して「役」にたたなかった。

「役に立たない」「無益」だからその学問は不要であるとまでは言えないだろう。しかし現代では社会と学問の関係が問われる。古くから芸術や文化は「タニマチ(スポンサー)」によって支えられてきたが、おそらく現代の学問は市民社会によって支えられなくてはならない。この場合で言えば、被災者に支持されることが「役に立つ」「有益」という判断基準になるのかもしれない。

とはいえ、被災者も多義的である。本書の巧みな構成はこのことに十分対応している。『~の社会学』というタイトルにふさわしい構成である。本書が、二律背反を包摂する制度化という未知の領域への第一歩になることを期待している。

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