【書評】山田信行著『グローバル化と社会運動――半周辺マレーシアにおける反システム運動』

山田信行著『グローバル化と社会運動――半周辺マレーシアにおける反システム運動』

(A5・312頁・¥2800+税)

社会学論評  第70巻 第4号 2020年3月

大畑裕嗣(明治大学文学部教授)より

 

 

本書は、著者の著作群に位置付けると『世界システムの新世紀――グローバル化とマレーシア』の主題に新たな側面から迫るとともに、アメリカ合衆国をフィールドとした『社会運動ユニオニズム――グローバル化と労働運動の再生』にも対応している。『社会運動ユニオニズム』が世界システムの中核ゾーンにおけるグローバル化と労働運動の関係を問うたのに対し、本書は「半周辺」ゾーンにおける類似の研究課題を扱った力作である。著者が長年にわたり継続してきた、このように骨太の研究プロジェクトが「労使関係の歴史社会学」という一貫した問題関心に導かれていることはいうまでもない。

 

世界システム論の可能性を精力的に彫琢してきた著者は、本書においてもウォーラーステインの反システム運動論の理論枠組みに基づき、半周辺社会マレーシアにおける社会運動の構造と動態を「民族解放運動」(第1部)、「労働運動」(第2部)、「新しい社会運動」(第3部)に分けて分析している。第1部では「ヒンドゥー教徒の権利行動隊」や「マレーシア社会党」を事例として、民族解放運動におけるエスニシティと階級関係の複雑な関連が明らかにされる。第2部では労働運動の意外な「弱さ」に注意が促され、運動の困難の背後には権威主義的で専制的な労使関係があることが指摘されるとともに、労働運動が自らの弱さを克服するために模索する、市民運動との連携の試みに焦点が当てられる。第3部は「新しい社会運動」としての環境保護運動について、参加者への質問紙調査も行いつつ、その可能性を探求している。以上の半周辺社会マレーシアにおける反システム運動の三相の分析から、グローバル化の中で半周辺社会の反システム運動にみられる「周辺性」と「中核性」の共存、それゆえに半周辺社会が有する世界システムの「変動の苗床」としての可能性が結論として導かれる。

 

世界システム論という確立された理論図式に裏付けられた本書の叙述をたどれば、評者のようにマレーシアの内情にうとい者さえも、そこで展開される社会運動についてそれなりにはっきりとしたイメージを形作ることができる。世界の特定の地域を研究する方だけではない社会学界の読者に向けて、社会運動に関する地域研究の成果を説得的に示していくうえで、著者の書き方はよい手本になるのではないか。これと関連して、マレーシア社会の理解にとって不可欠と思われるエスニシティについて、インド人、華人、マレー人という異なった担い手による運動間の複雑な関係をわかりやすく解きほぐして示す、著者の力量に感嘆した。

 

本書は分析概念として「新しい社会運動」を用いているが、現実の運動の叙述の中では、当然のことながら「市民運動」(civil activism)という用語も使わざるをえなくなる。マレーシアの文脈における「新しい社会運動」と「市民運動」の関連布置(分析概念と実体概念というように単純に切り分けられるか)をどうとらえるべきか。また、本書では主に労働運動の側からみた市民運動との提携の可能性について述べられているが、逆に市民運動のほうでは労働運動との提携についてどう考えているのか。これらはほんの一例で、具体的な論点について、著者に教えを乞いたいことは数限りない。

 

評者は、この数年のあいだに、本書を含め、林真人『ホームレスと都市空間』、野宮大志郎・西城戸誠編『サミット・プロテスト』、富永京子『社会運動のサブカルチャー化』という、「グローバル化と社会運動」に関連する何冊かの研究所を書評させていただく機会を得た。本書の著者が編者の一人をつとめられた、本誌(65巻2号)の特集「グローバル化と社会的排除に抗う社会運動」に収められた諸論考なども含め、これらの研究はいずれもすぐれたものだと思うが、「グローバル化と社会運動」に関するとらえ方が、研究者により、また具体的に扱われる運動により、実にさまざまであることには驚かされた。別に難しいことをいうのではない。「グローバル化と社会運動」に関する研究は、いまや世界的に行われているわけだが、その流れ(混沌?)の中でわれわれ日本の社会学徒は全体的に何を論じているのかを少し整理しておく必要があるのではないか。あらためて記しておく。われわれはなぜグローバル化と社会運動の関係に注目し、それについてどう書いてきたのか。結局、「グローバル化」とは何だったのか。その中で社会運動はどのようなものになった(なりうる)のか。

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