【書評】松井克浩著『故郷喪失と再生への時間——新潟県への原発避難と支援の社会学』

松井克浩著『故郷喪失と再生への時間——新潟県への原発避難と支援の社会学

村落社会研究ジャーナル No.50 第25巻 第2号 2019年4月

岡田智弘より

 

はじめに
東日本大震災と福島第一原発事故をめぐっては、夥しい数の著書、論文が公にされている。そのなかで、時代に営々と読み継いでもらいたい本、あるいは災害問題を専門としている公的組織にぜひ常備してもらいたい本は、限られている。本書は、間違いなくそのような著作の一つであると断言できる。
著者は、2004年の中越地震以来、社会学の立場から被災者の生活実態と復興に向けた意識調査、コミュニティや「場」の役割について調査研究を続けてきた。東日本大震災にあたっても、福島県に隣接する新潟県をフィールドに地道な調査を続けてきており、そのひとまずの集大成が本書である。あえて「ひとまず」と書いたのは、著者自身も強調しているように、福島原発事故は未だ収束しておらず、多くの県外避難者の生活再建や浜通りの被災町村での地域再建の課程は、今後もまだまだ続くからである。
実は、私も、地域経済学の立場から、阪神・淡路大震災、中越地震、中越沖地震、そして東日本大震災、熊本・大分地震の被災地を調査し、その時々に「記録」と「政策的問題」を社会的に明らかにするために、不十分ながら継続的に論文や著書を発表してきた。同じ災害現象を、社会学と地域経済学という異なった切り口と方法で追及してきたといえる。そこに違いがあるのは当然のことであるが、事実を踏まえたうえで慎重に展開される著者の問題指摘や論理提起については、ほとんどが共感できるものであり、また多くの新しい知見を得ることができ、評者として本書を読む機会を与えていただいた本誌編集委員会に深く感謝する次第である。

 

1 なぜ新潟県なのか
本書のタイトルを見て「なぜ新潟県なのか」と多くの読者は戸惑うのではないだろうか。著者が、たまたま新潟大学に勤めていたからなのか。もちろん、その偶然の要素があることは否定できない。だが、それ以上に、合理的かつ必然的な理由を著者は序章で明確に述べている。
第一に、福島第一原発事故福島県民の広域避難者の避難先を都道府県別にみると、2017年2月時点で新潟県は、東京都、埼玉県、茨城県に次いで4番目に多い3079人となっている。しかも、原発事故被災地の福島県双葉郡からの」「強制避難者」は、福島第一原発と同じく東京電力の柏崎刈羽原発が立地している柏崎市に避難する人が多く、福島県中通り地域などからの「自主避難者」・母子避難者は新潟県に比較的多く集中しているという注目すべき事実を統計に基づいて明らかにしている。後の被災者へのヒアリング調査からも裏付けられるように、柏崎への流れは原発関連の仕事と新類縁者のネットワークによって形成されたものである。
第二に、新潟県は前述したように、中越地震以来、大災害が続いており、著者によれば、「その過程で、災害からの復旧・復興、被災者支援や被災コミュニティの再生に向けた制度や文化、ネットワークを育んできた」ところだからである(はしがき)。実際、新潟県は、広域避難者の受け入れのために山形県に続き、全国2番目に民間借り上げ仮設住宅制度の導入を決め(2011年7月)、広域避難者の二重生活苦を緩和するための高速バス・高速道路料金の支援策を独自に講じた県でもある。
以上のように、新潟県では自治体と住民が、自らの災害経験をもとに、福島からの避難者を積極的に受け入れ、そして多様な支援を行政レベル、市民レベルで行っていたのである。著者の問題関心の一つは、このような従来のあり方が、原発事故被災者の復興支援に対してどれだけ有効に機能したかどうかという点にある。本書の副題である「新潟県への原発避難と支援の社会学」は、それを的確に表現している。

 

2 本書の中心的課題と構成
著者は、序章において、本書の中心的な課題は〈「被災者にとっての復興」と地域やコミュニティの役割を相互に不可分のものとして捉え直すこと〉にあるとして、〈今後も巨大災害の到来が予測されるなかで、今回の原発避難を繰り返し検証・反省し、現在の被害を明らかにして、回復への途を探ること、そして将来に向けて経験と記憶を蓄積することが必要である〉と述べている。
これは、原発事故被害が収束していない状況下での、政府による「自主避難者」への支援打ち切り、被災地への帰還促進と原発被災自治体における復興策への一面化に対する疑問、そして被災地における地域の復興を強調すればするほど広がる被災者間の分断とその解決策について、あくまでも被災者の生活再建の願いに寄り添った真摯な言葉である。
このような課題設定の下で、本書は三つの部からなる。「第1部 広域避難の経過と支援の特徴」では、新潟県における原発避難の経過と避難者支援の特徴を、県レベル(第1章)及び柏崎市の行政施策(第2章)と民間支援者(柏崎市・サロン「むげん」)を対象に、5年間の時間経過を軸に描かれている。
「第2部 広域避難者の記録」は、新潟県への避難者への継続的聞き取りをもとに生活の実態や思いの変化を記録した章からなる。第4章では、浜通りの被災地から柏崎市などに「強制避難」してきた人々を対象としている。そこでは、避難生活が安定しているように見えても、故郷に戻って生活再建できる見通しがないことから「宙づり」感覚が持続しているとする。第5章は、新潟市に「自主避難」してきた人たちの生活実態と意識変化を追う。行政的な支援も受けられず、さらに地域、家族、友人からも「分断」されるなかでの苦悩がリアルに再構成されている。第6章では、新潟市に南相馬市から避難してきた一人の女性が、学校を中心にしたネットワークを維持するために「福浦こども応援団」行っている姿をとらえ、復興の長期的なあり方についてのヒントとして位置づけている。補論では、被災者像・避難者像の一面的な理解に対して、個別性と多様性を明らかにしていくことの方法的困難性とその必要性について語られている。
「第3部 場所と記憶――『再生』への手がかりを求めて」では、における山古志地域における復興・再生の経験から、原発事故被災者にとっての復興のあり方を展望する。第7章では、山古志村の再建では、時間をかけて地域的なつながりがゆるやかに重層的に広がっていったこと、第8章では災害によっていったん地域を喪失し危機に瀕した地点から、空間論・場所論という既存の理論フレームも参照しながら、長期的な時間展望の必要性を提起している。さらに、第9章では、原発避難を取り巻く環状の諸相、その社会性に注目しながら、避難者の状況を「回復」するための試みについて論じている。
終章「『復興』と『地域』の問い直し」は、本書の結論部分であり、とくに「被災者にとっての復興」には何が必要なのか、そのためには「地域」はどのように考えられるべきなのかについて述べている。

 

3 本書が明らかにしたこと
著者の方法は、すでに述べたように、アンケートや統計的方法を使った分析ではなく、原発事故被災者やその支援者、行政機関に対する系統的で丁寧なヒアリングを繰り返し、それを再構成して、全体の多様な問題構造を描くというものである。
その過程のなかで、新潟県民が過去において体験してきた自然災害と、福島第一原発事故による被害と復興のあり方、そして何よりも被災者の意識が、大きく異なっているということが強調される。このことが、おそらく著者が最も言いたかったことではないかと思う。それは、本書のタイトルである4「故郷喪失と再生への時間」という表現に凝縮されている。
私も。従来の災害の場合と同様の、あらかじめ決めた復興期間と予算に固執した帰還・現地復興一本槍の政府の政策を地域経済学の視点から強く批判してきた。著者は、おそらく同様の思いを胸に秘めつつも、あくまで冷静に避難者の声を一つひとつ拾って積み重ねる。時間経過の中での被災者の避難生活や、家族・故郷への想いの複雑な変化と多様性が、避難者の言葉を通して圧倒的な筆力で示される。そのことによって、福島の被災者に対する単純で平板な捉え方を根底から覆すとともに、再生と復興の問題がどこにあるかを被災者自身の言葉を通じて説得的に描くことに成功しているといえる。
それだけではない。著者は、被災者にとっての復興と、被災地の再生を明確に区分すべきだとして、未来を見通せない原発被災者の心理にある被災地と避難先の間を行き来する「揺れ」や「宙づり」感への政策的対応にも言及する。日本学術会議も提起した「仮想の地域コミュニティ」の必要性を、自らの調査結果に基づいて説いている点は、説得力がある。
併せて、それは人間にとっての故郷、地域というものの存在を問いかける理論的な問題でもある。災害研究を通して、あらためて地域経済の仕組みとその復興のメカニズムを明らかにしようとしてきた評者にとっても、実に興味深い論点が散りばめられている。ぜひ直接著者と語り合いたいと思った刺激に満ちた力作である。

(京都橘大学 岡田智弘)

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