【書評】渡辺雅子著『韓国立正佼成会の布教と受容』

『韓国立正佼成会の布教と受容』

(東信堂、2019年、A5判、ⅻ+352頁、3,700円+税)

   藤井健志

1.研究史における位置

 本書には十五年近くにわたって著者が調査を続けてきた立正佼成会の韓国における展開の歴史が記述されている。また同時にそれを担った韓国人信者のライフヒストリーが、組織の変遷とともに詳細に描かれている。したがって本書は日本の宗教の海外布教に関する研究であるとともに、新宗教信者の信仰受容や教団内の諸活動をとらえた新宗教研究でもある。著者のフィールドワークを基盤とする堅実な研究は、すでに学界において定評があり、いまさら評者が指摘することでもないが、本書もインフォーマントからの丁寧な聞き取り調査によって韓国の立正佼成会に関する詳細な事実を明らかにした優れた研究である。

 著者は、長年ブラジルにおける日本の新宗教の活動を調査してきており(1)、また他国でも立正佼成会に焦点を当てた調査をしている(2)。したがって本書は、新宗教の海外布教研究の流れに位置付けられるとともに、著者がこれまで行ってきた立正佼成会の海外布教に関する研究の一部とも言うことができる。

 海外布教に関する研究の流れから見ると、戦後の韓国における日本の新宗教教団の展開については、すでに何人かの韓国人と日本人の研究者が中心となって研究が行なわれている(3)。従来、天理教や創価学会の韓国での活動については、かなり取り上げられてきたが、立正佼成会に焦点を当てたまとまった研究は初めてである。

 一方で、著者は日本の新宗教についても、長い間研究を続けてきており(4)、特に新宗教の信者に強い関心をもって研究してきたと言うことができる。あるところで著者は、自分の関心は「一貫して「個人」にある」と述べ、「入信過程、体験談など「個人」の内面に注目してきた」と述べている。本書は研究対象が韓国人信者であるとは言え、その方法は、著者の従来の日本の新宗教研究と軌を一にしており、著者の新宗教研究の延長線上に置くことができる。こうした成果は信者に関する研究が、新宗教の存在する意味を照射する役割をもつということをあらためて気づかせてくれるものだと言ってよいだろう。

 ちなみに最近の新宗教研究では、こうした信者の信仰受容、入信過程、態度変容等に関する研究が少なくなってきており、むしろ信仰継承に関する研究が増えつつあると思う。そこには新宗教が、最近新しい信者をなかなか獲得できず、信仰を継承した二世信者の割合が増しているという事情が関わっているだろう。

 なお著者は、これまで新宗教を中心にしながらも、関連する移民の研究をいくつか行っている。その著書の一つにおいて、「インタビューの過程で、思い出したくないことを思い出させてしまった場合もあるかと思われる。お詫びしてご寛容を願うものである」と述べている。この記述は、著者のインフォーマントに対するこまやかな気遣いや、共感的理解の深さを示している。こうしたフィールドワーカーとしての資質によって、研究対象の人々との間に、強い信頼関係を築くことに成功しているのだと思う。日本人研究者が、韓国人信者を研究対象とする場合には、様々な微妙な問題が生じうるが、著者のこうした資質が、研究の背後で重要な役割を果たしていたのではないかと想像する。

 いずれにしても、韓国の立正佼成会とその信者についてまとめた本書は、新宗教の海外布教に関する研究と、新宗教信者に関する研究の上に位置付けられるものであり、同時にこれまで著者が示してきたいくつかの研究の方向性が、一つの実を結んだものだとも言うことができよう。

2.本書の構成と概要

 本書の構成は次のようになっている。

第一章 韓国における立正佼成会の展開過程

第二章 韓国立正佼成会にみる日本的要素の持続と変容

第三章 支部組織の転機と三支部制初代韓国人支部長の信仰受容の諸相

第四章 韓国人幹部信者の信仰受容と自己形成

第五章 在日コリアン二世の女性教会長のライフヒストリー

 以下、章に沿ってその概要を述べよう。

 第一章では、韓国立正佼成会が、在日コリアンの要請から一九七九年に始まり、何人かの在日コリアンの積極的な布教から活動が拡がっていった過程が述べられている。一九八二年には韓国佼成会が発足し、信者は韓国人のみだったが、日本の宗教団体が韓国で布教することには困難が伴ったという。

いくつかの制度上、組織上の改変を経た後、二〇〇二年に韓国人教会長が誕生し、ソウルに三支部が設置された。二〇〇三年には二六三三世帯の会員がおり(新規入会世帯数の累計。四頁)、活動している信者は(社会階層が)中層の主婦が多いという(なお二〇一八年の累積世帯数は三四〇四世帯。一五五-六頁)。活動の中心は、道場における供養、法座、様々な指導であり、九〇年代から機関誌と本の翻訳が始まっている。日本の本部、教会との関係は密接であるが、一人の在日コリアン(初の韓国人教会長)と、その長女の存在が非常に重要だったことも明らかにされている。

 第二章では、日本で生まれた佼成会が、韓国社会・文化への適応に関して、どのように対応したかが論じられている。第二章の各節は「文化的異質性の稀釈」「佼成会式先祖供養と韓国の宗教文化との葛藤」「韓国人信者からみた文化的違和感とその理解」という構成である。とくに反日感情を刺激しないようにという配慮が念入りにされており、題目の韓国語読み、経典における日本由来の菩薩・神名の削除や名称変更、韓国仏教の様式の選択的な採用等が行われている。総戒名を自宅に祀るということには忌避感が強いので(このことが韓国佼成会にとっての一番のネックになっているという)、それを教会に置いたり、双系の祖先を祀ることは「親孝行をする方法の一つである」(八四頁)と説明したりしているという。なお韓国仏教との違いに関して、韓国人信者は、伝統仏教の僧侶に比べて、佼成会の教会長は身近な存在で、かつ具体的な生活実践とむすびついた指導をすると認識しているとのことである。

 第三章では、教会道場の改築に伴って一時的に道場が使えなくなった時に生じた変化について述べられている。道場の外での会員の世話が活動の中心になったため、ソウルに設けられた三支部の力量が問われたのである。なお当時の三人の韓国人支部長(いずれも女性)のうち二人は、在日コリアンの親族が入会のきっかけとなっていた。活動形態の変化によって、三人のうち二人が支部長を交代し、結果として、在日コリアンとは関係のない「生粋の韓国人」(一四七頁)が、佼成会支部を担うことになった(二〇〇九年。なおこの年には在日コリアンの教会長が退き、その長女の韓国人が教会長となっている)。本章では三人の支部長の信仰受容の過程も示されているが、そこにおける彼女らの伝統仏教やムーダンとの関りは、一般の韓国人女性の宗教との関りを垣間見るようで興味深いものであった。

 第四章で中心となっているのは、新しい世代の四人の幹部(やはり全員女性)の信仰受容の様相である。いずれも在日コリアンとは関係をもたない人々で、高学歴の人も、そうでない人もいる。皆、入会の時には何らかの困難な問題を抱えていたが、入会後は自身が変わることによって、問題の解釈の仕方を変えていく。こうした点で、彼女たちは立正佼成会の教えを内面化していると言ってよいだろう。また一方で、二〇一八年の時点で、信者が高齢化してきていることが指摘されている。若手の信者がほとんど仕事を持つようになったため、専業主婦型をイメージした佼成会内の役の遂行に困難が生じ始めたことも指摘されている。

 第五章は、これまでに繰り返し登場していた、韓国立正佼成会の初代の韓国人教会長のライフヒストリーである。在日コリアン二世で、日本の永住権を保持したまま日韓の間を往復し、最終的には韓国で立正佼成会の発展に尽くして亡くなった人である。そして多くの韓国人信者に尊敬され、慕われた人でもある。彼女は日本で苦労していた時に、やはり在日コリアンの妹に誘われて入会している。日本生まれなので韓国語はわからずアイデンティティの基盤は日本に置いていたらしい(二六一頁)。言葉を韓国在住の長女(第二代韓国佼成会教会長)から習い、第二章で紹介されている工夫をして、現地化を推し進め、立正佼成会を韓国に定着させたのである。

3.在日コリアンというエスニックグループ

 著者は立正佼成会の韓国布教に関して、海外布教ではなくて、異文化布教という語を一貫して使っている。こうした語の使い方は、ブラジルにおける日系新宗教の研究にも共通しており、著者の基本的な考え方を反映していると思われる。それは日本の新宗教の活動が、単に日系のエスニックグループの枠にとどまるのか、それともそれを超えて非日系の、すなわち「異文化」の人々に拡がっていくのか、という点に注目するという考え方である。簡単に言えば、信者は日系人だけなのか、それとも非日系人といるのか、ということに注目する視点である。このことも関連してエスニックグループの問題を少し考えてみたい。

 前述のように韓国の立正佼成会が拡大しえた背景には、在日コリアンの活動があった。この在日コリアンと呼ばれる人たちのエスニックグループとしての特徴はどのようなものだろうか。その典型的な例は本書第五章に記述されているが、日本生まれで、母語は日本語、国籍は韓国であっても、日本文化をかなり内面化している人々だと言ってよいだろう。こうした人々は、国籍と、エスニックな側面から見た場合は、現地の(本書では韓国の)マジョリティと同じカテゴリーに入るが、文化および言語の面ではマイノリティとなる。ブラジルや、北米、ハワイには、ほとんどいない種類の人たちである。

 またその布教を受け入れる側の韓国人だが、前述のように初代のソウルにおける支部長のうち二人が、親族に在日コリアンがいた。そのため彼らは日本に対して親和的だったという(一三〇頁)。なお台湾の立正佼成会は、植民地時代に日本語教育を受け、日本を懐かしむ台湾人に受容されている。これらの日系新宗教を受容した現地の人たち(韓国人、台湾人)を、単純に非日本人(あるいは非日系人)ととらえることはできない。戦前の日本の植民地支配という歴史を基盤にして、それぞれ異なる状況にあるとは言え、日本文化に対して一定の知識と理解、それにしばしば親近感をあらかじめもっている人々である。こうした点に注意を促すことによって、日本の植民地支配を肯定するつもりも、また戦後の韓国における反日感情を否定するつもりもまったくないが、しかし、こうした人々が戦後であっても、旧植民地等に一定数いて、日本の新宗教を受容するグループとなっている点は否定できない。

 このように考えると、立正佼成会の韓国布教は、単純な異文化布教とは言えないと思う。布教する側も、受容する側も、日韓の歴史に由来する日本社会や日本文化との複雑な関係をもっているからである。このことは、日本の新宗教が海外でどのような信者を獲得しているのかということを考える際に、日系人か非日系人かという分類では、掬いきれない人々がいるということを示している。今後、海外における日本の新宗教の活動を研究する際には、こうした問題をもっと考えるべきだと思う。あるいは「異文化」とは何かを、歴史的背景や社会的構造を踏まえて、より詳細に検討すべきだと言ったほうがよいかもしれない。もちろん、第三章、第四章で指摘されているように、韓国の佼成会では在日コリアンと関係を持たない幹部が生まれてきており、日韓の過去の歴史的問題から切り離された布教が主流になってきている。したがって右の問題を過大視することはできない。だが、現在の韓国佼成会教会長が、前述のように在日コリアンの長女であるため、日韓両語に堪能で、言葉の壁という問題がないという点を考えると、歴史との関りを過小評価することもできない。

 なお本書ではあまり触れられていないが、現在の韓国における日本の新宗教には韓国人信者の数がかなり多いこと、さらにこれは立正佼成会の事例ではないが、戦前に天理教に入信した韓国人信者が、敗戦によって日本人が引揚げた後も独自に天理教の活動を続けており、それが戦後の韓国における天理教の教勢拡大につながっていることは、注目に値する。逆に現代の日本において韓国人キリスト教徒(いわゆる統一教会の信者は含まない)が積極的に日本人を対象とした布教を試みていることも興味深い。本書も含めてこれらの研究は、日韓関係を宗教という視点から見ると、一般に言われている関係とは異なる様相が見られることを示している。

4.新宗教の海外布教研究の課題

 本書では、韓国人信者が立正佼成会について、韓国の伝統的宗教とは違って生活に結びついた教えをもっていること、入信することで自分自身の成長と人間関係の改善等の具体的な成果があったこと、他の信者との暖かい関係があることなどを随所で語っている。言い換えると、著者が繰り返しそうした記述をしているのである。こうした記述は、信者に対する聞き取り調査の中で偶然得られたものではないだろう。その背後には、その回答を引き出す著者の質問があり、さらにその背後には、著者が基盤とする社会学における態度変容の研究や、その際の準拠集団や重要な他者の役割に関する理論があると言ってよい。

 本書の場合は、信者のライフヒストリーを、韓国立正佼成会の展開に結び付けて分析しているので、必ずしも詳細な信者研究にはなっていないが、韓国人信者は佼成会に入ることにより、ものの見方が変わり、困難の受けとめ方が変化している。こうした変化は、韓国人信者独特なものではなく、また立正佼成会信者に特有なものでもない。注(4)にあげた著者の『現代日本新宗教論』に登場するいくつかの新宗教団体の日本人信者にも見られるものである。これは日本の新宗教信者に共通して見られる現象だというだけでなく、著者が基盤としている社会学的な視点に基づく信者のとらえ方が同一だからだと思う。

 逆に言うと、こうした方法を取ると、どこの国の信者も類似した変容を経験して信者になるという結論になりやすいのではないだろうか。もちろん本書が、韓国独特の宗教的環境や文化的環境を無視しているわけではない。前述のように第二章では、韓国の伝統的仏教の特徴や、韓国人の宗教的儀礼に対する習慣や感じ方が具体的に述べられている。とは言え、そこで韓国人と宗教との関りの、具体的な側面のいくつかは明らかにされているとしても、韓国人と宗教との全体的な関係と、その変容はよくわからない。たとえば「韓国は儒教の国で、祖先祭祀が重要視される」(七七頁)が、「家の中に先祖を祀るというと、鬼神、すなわち魔が入るという」(八〇頁)。このように儒教と祖先祭祀と巫俗信仰が混ざり合った宗教観を、韓国人はもっているようだが、こうした宗教観の上に仏教はどのように位置づけられ、信仰されているのだろうか。また韓国人信者が、立正佼成会の教えを受容する時には、右のような宗教観の何かが変化しているのだろうか。変化しているとすると、なにが変化しているのだろうか。

 もとより本書の射程距離には、こうした韓国人の宗教観の問題は入っていないので、それを論じていないことが本書の瑕疵になるわけではない。むしろ今後の日系新宗教の海外布教を考える時に、布教が展開されている社会固有の文化体系において、宗教的なものがどのように規定されており、そのどこに日系新宗教が位置づけられていくのかに、もっと注意を払うべきだと言いたい。言い換えると、人が異文化に属する宗教を受容する時に、その文化でもともと共有されていた宗教観をどのように清算しているのだろうか。あるいは清算していないのだろうか。

 これまでの新宗教による海外布教研究は、前に述べた信者のエスニックグループの問題や、右に述べた布教地固有の社会構造や文化構造、宗教構造への注目が足りなかったのではないかと思う。社会の近代化や現代化は、全世界で並行して進展していくという側面があり、グローバル化が進むにつれて、その傾向はますます強くなっている。しかし一方で、それぞれの社会に固有な構造は、簡単には変わることはない。海外布教であっても異文化布教であっても、国家や社会、文化の境界をなんらかの形で超える活動である。それを研究するためには、社会や文化およびその背景にある歴史との多様性と、近・現代化による社会や文化の均質化の双方に目配りをしながら、研究を進めていく必要があると考える。

 本書は、日本の新宗教の海外布教における在日コリアンの存在の重要性を、具体的かつ詳細に明らかにすることを通して、この研究分野がもっていた課題を浮かび上がらせたと言うことができると思う。いずれにしても、こうした労作を世に出した著者には心から感謝したい。

(1)ブラジルの調査をまとめたものが、渡辺雅子『ブラジル日系新宗教の展開——異文化布教の課題と実践』(東信堂、二〇〇一年)。なお以下では、本書の著者の業績の場合は名字のみ記載する。また初出の文献を示す場合以外は、サブタイトルを省略する。

(2)渡辺『立正佼成会のアメリカ布教——非日系人布教が展開しているオクラホマ教会の事例』(『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』一四〇、二〇一三年)、同「バングラデシュにおける立正佼成会の信仰受容」(同誌 一四一、二〇一四年)、同「スリランカにおける立正佼成会の布教展開と信仰受容の諸相」(同誌一四九、二〇一八年)。

(3)代表的な研究成果は、李元範・櫻井義秀編著『越境する日韓宗教文化——韓国の日系新宗教 日本の韓流キリスト教』(北海道大学出版会、二〇一一年)である。なおこの研究は、本書の中でも言及されている。

(4)それをまとめたのが、渡辺『現代日本新宗教論——入信過程と自己形成の視点から』(御茶の水書房、二〇〇七年)。

(5)渡辺「『現代日本新宗教論』書評論文リプライ」(『社会学評論』五九—二、二〇〇八年)、四二八頁。

(6)渡辺「あとがき」(同『満州分村移民の昭和史——残留者なしの引揚げ 大分県大鶴開拓団』彩流社、二〇一一年)、二二〇頁。

(7)前掲『ブラジル日系新宗教の展開』、五—六頁。なおこの考え方は、多くの新宗教研究者に共有されていると思われる。井上順考他編『新宗教事典』(弘文堂、一九九〇年)には「新宗教と異文化」という章がある。

(8)本書、三〇六頁。なお評者もそうした報告をしたことがある(藤井健志「台湾における日系新宗教の展開」(『東京学芸大学紀要(第二部門)』四三、一九九二年)。

(9)評者は、海外における日本の新宗教の布教地について、日系移民社会が存在している地域、日本人が組織的に移住したことのない地域の他に、かつて日本の植民地だった地域を「第三の地域」として研究すべきだと述べたことがある(藤井健志「台湾における日系新宗教の展開(四)」(「東京学芸大学紀要(第二部門)」四八、一九九七年)。

(10)二〇〇四年時点で一九〇万人だという。本書ではⅳ頁に、前掲『越境する日韓宗教文化』等に基づいて記述されている。

(11)同『越境する日韓宗教文化』、一一五頁。

(12)同書、第四部を参照。

(宗教研究94巻1号 2020年6月 掲載)

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